伝記
ホルミズド4世は、サーサーン朝の王(在位579年〜590年)である。ホスロー1世の息子で後継者にあたる。生年は定かでないが、540年ごろに生まれたとみる見方がある。母は突厥のハーンの娘とされ、『シャー・ナーメ』では「トルクザード(トルコ人の息子)」と呼ばれる。ただし、年代の食い違いからこれを疑う研究者もおり、母をハザールの王女とする説や、エフタルの王女とする説もある。ホスロー1世は、息子が指導者としての力量を示していたことを知って後継者に定め、ホルミズド4世は579年に即位した。
即位後の王は、アル=タバリーの伝えによれば、学識があり、貧しい者や弱い者への思いやりを持っていた。父の名声を超えようとして庶民を保護し、軍隊と宮廷に厳しい規律を課し、貧民や農民の福祉にも熱心だったと描かれる。父の政策を引き継ぎ、地方の小地主層であるデフカーンを支えて、大貴族の力を抑えようとしたとされる。気位が高く荒々しい性格だったともいわれる。一方で、父の時代の有力者を排除しようとして多数の貴族を投獄し殺害した。ミフラーン家のイザドグシャスプや軍司令官のバフラーム、ボゾルグメフルとその弟シマフらがその例で、イザドグシャスプとボゾルグメフルは父の時代に宰相を務めた人物であった。アル=タバリーによれば、その弾圧で13,600人の貴族と宗教関係者が死を賜ったという。ゾロアスター教の神官たちがキリスト教徒の弾圧を求めたとき、王はこれを拒んだ。両方の宗教の支持を得て初めて王位と政府は安定すると述べ、臣民は誰もが自由に信仰を行うべきだという考えを示したとされる。このため神官たちの強い反感を買い、多くの処刑と財産の没収に及び、最高位の神官も殺されたという。580年にイベリアのバクリウス3世が死ぬと、王は機会をとらえて現地の君主を廃し、サーサーン朝の総督を置いた。
西ではビザンツ帝国との戦争が、父の代から続いていた。皇帝ティベリウス2世との和平交渉が始まったばかりだったが、王は父の征服地を一部でも譲ることを傲慢に拒んだ。そのため、ビザンツの著作家たちは王に好意的ではない。ビザンツの将軍マウリキウスはクルディスタンに侵入したが、ガッサーン朝の王の裏切りで計画が王に漏れ、撤退を迫られた。582年にはペルシアの将軍がコンスタンティアを攻めて敗死した。その後も一進一退が続き、589年にペルシア軍はマルティロポリスを占領した。
東では、588年にアラブ人が西の属州を略奪し、ハザール人が北部の属州を奪い、突厥とエフタルの残党がバルフを占領するなど、サーサーン朝は混乱していた。王はミフランシタドの助言に従ってバフラーム・チョービンを呼び寄せ、東方軍の最高司令官に任じた。バフラームは12,000騎を率いてバルフを制し、エフタルの地を征服し、オクサス川を渡って突厥のハーンを殺害した。さらに北部でハザール人を退けたが、カフカスでローマと戦い、アラス川の戦いでは敗れた。王は彼の名声を妬んで官職から外し、女性用の衣服を送って辱めた。バフラームは攻撃的な手紙で応じ、捕縛に送られた兵も彼に寝返って、大軍でクテシフォンへ進んだ。
王は対抗策を組織しようとしたが、息子のホスロー2世に阻まれたと伝えられる。やがてヴィスタムとヴィンドゥイフの兄弟らによる宮廷クーデターが起こり、王は退位させられ、目を潰されて殺された。590年のことで、ホスロー2世が即位した。同時代の史料は王を暴君として描く傾向があるが、現代の歴史家には、父の政策を、やや野心的すぎるほどに継ごうとした善意の支配者とみる見方もある。
同じ年に亡くなった人物
- 平原王 (590年没)
- ギスルフ1世 (フリウーリ公) (590年没)
- アウタリ (590年没)
- グアラム1世 (590年没)
- ペラギウス2世 (ローマ教皇) (590年没)
同じ地域に関係する人物
- ホスロー1世 (579年没)
- アリー・ハサン・アル=マジード (2010年没)
- アル=シェイク・アル=ムフィド (1022年没)
- Izz al-Din ibn Hibatullah ibn Abi l-Hadid (1258年没)
- Ali Hussein Shihab (2016年没)