伝記
ファイサル2世は、1935年5月2日にバグダードで生まれた、イラク最後の国王である。第2代国王ガージーと、最後のヒジャーズ国王の娘である王妃アーリヤの間の唯一の子で、イラク生まれとしては最初で最後の国王であった。両親はいとこ同士で、ともにヒジャーズに起源を持つハーシム家の血を引く。ハーシム家は第一次世界大戦でアラブの反乱を起こしてイギリスに協力した一族で、祖父のファイサル1世は、シリアの王としてダマスカスから追われたのち、1921年にイラクの王となった人物である。イラクは諸部族や民族、宗教の対立を抱えた若い国で、王が国をまとめるのは難しかった。
1939年、父王が交通事故で崩御し、わずか3歳でイラク国王に即位した。事故は政治的な暗殺ではないかとも疑われている。幼い王に代わって、母方の叔父にあたる26歳のアブドゥル=イラーフが摂政となった。幼少期のファイサルは喘息を患っていた。第二次世界大戦の時期には、親英派の摂政らと、枢軸国に期待する親独派の対立が起こり、1941年4月に親独派がクーデターを起こして摂政を退けた。しかしイギリス軍がすぐに上陸し、クーデター政権は敗北して、摂政は復帰した。戦争中は母とともにイギリスのバークシャーで暮らしたことがあり、1942年にはイギリス委任統治下のエルサレムも訪れている。2021年には、この少年王が描いた鉛筆画やパステル画143点が、イラク国立公文書館で展示された。飛行機や爆弾、戦闘のほか、風景や鳥、建物、ヨーロッパや北アフリカの地図も描かれていた。
ファイサルは、ヨルダン国王フセイン1世とともにイギリスに渡り、ハロー校で学んだ。2人は仲がよく、自国どうしの合併によるアラブ民族主義の実現を望んだという。1952年、17歳でアメリカ合衆国を訪問し、トルーマン大統領とも会っている。1953年5月2日に成年に達し、ヨルダンのフセイン1世の即位と同時に親政を始めた。ただし本人は政治に関心が薄く、形式の上では元首としての全権を得ながら、摂政から王太叔父となったアブドゥル=イラーフに実権を任せたままだった。このため、政治は王太叔父と、祖父ファイサル1世以来の重臣で反共独裁の政策をとるヌーリー・アッ=サイードが主導した。1955年にはイラクをバグダード条約に加え、イラン、トルコ、パキスタン、イギリスとの軍事同盟に加わった。
1958年2月1日、シリアとナーセルのエジプトが連合してアラブ連合共和国が成立すると、同月14日にイラクとヨルダンも対抗してアラブ連邦を結成し、ファイサル2世が盟主となった。しかしこの連合はわずか5か月で終わった。夏、ヨルダンの要請でイラク軍がヨルダン国境へ向かうことになると、イラクの自由将校団を率いるカーシム准将は、国境へ向かう部隊が首都近郊を通ることから、これをクーデターの好機と見た。クーデター部隊はバグダードを占領し、7月14日に共和国の成立を宣言した。ファイサル2世は、家族や王太叔父アブドゥル=イラーフら多くの王族とともに、占拠された宮殿から出たところを銃殺された。23歳であった。遺体は当初ラシード基地の庭に埋葬されたが、ヨルダン王室の要望により、サッダーム・フセイン大統領の時代に掘り起こされて、王族のアーザミーヤ墓地に改葬された。
この7月14日革命でイラクの君主制は崩壊した。小柄で、印象的なタイプではなかったものの、人柄がよく威厳もあり、周囲に人気があったといい、ジャズを好んだという。漫画『タンタンの冒険』に登場するアブダラーのモデルになったともされる。
同じ年に亡くなった人物
- フレデリック・ジョリオ=キュリー (1958年没)
- トリス・スピーカー (1958年没)
- アーネスト・ローレンス (1958年没)
- ミハイル・ゾーシチェンコ (1958年没)
- ヨーゼフ・クラウスナー (1958年没)
同じ地域に関係する人物
- アブー・バクル・バーキッラーニー (1013年没)
- アッ=マーワルディー (1058年没)
- ムッタキー (968年没)
- Suleyman Husnu Pasha (1892年没)
- イブン・ハンバル (855年没)