HISTORICAL PERSON · 311年没

ペトロス1世

302年から311年のアレクサンドリア教皇。ディオクレティアヌス帝の迫害下で信徒を励まし、迫害で棄教した者への寛容を説いた。殉教し聖人とされる。

生涯
311年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

アレクサンドリアのペトロス(ペトロス1世)は、302年から311年までアレクサンドリアの第17代教皇・総主教を務めた人物である。コプト正教会、正教会、カトリック教会で聖人として崇敬されている。311年に殉教した。

ペトロスはアレクサンドリアで生まれ育った。コプト正教会は、旧約聖書のサムエルの話のように、両親が彼を司祭として育てるためテオナスに託したと信じている。彼は読師、助祭、司祭と聖職の階梯を上り、高い教養を備えてアレクサンドリアの教理学校の長となった。300年の初め、死の床にあったテオナスは教会の指導者たちにペトロスを後継者に選ぶよう勧め、そのとおりになった。

ペトロスの在任中の303年に、ディオクレティアヌスによる迫害が始まり、その後10年ほど断続的に続いた。彼は迫害のためにいったん町を追われ、多くの土地をめぐって手紙で信徒を励まし、のちに町へ戻って教会を直接導いた。ひそかに獄中の人々を訪ね、やもめや孤児を助け、秘密の礼拝を行った。

迫害の時期の彼の立場については伝えが分かれる。ひとつの伝えでは、ペトロスはしばらくのあいだリコポリスの主教メレティオスとともに投獄され、迫害のなかで命を守るために異教の犠牲をささげたり聖書を当局に引き渡したりした信徒の扱いをめぐって争ったという。ペトロスは寛大な扱いを求め、メレティオスは、背教した者は信仰を捨てたのであり洗礼をやり直す必要があると固く主張した。論争は激しくなり、ペトロスが自分とメレティオスのあいだに幕を掛けたことで終わった。メレティオスの支持者に司祭アリウスがいたが、のちの論争に関わるアリウスと同一人物かどうかは、近年の研究でも見解が分かれる。10世紀の歴史家アシュムナインのセウェルスによれば、アリウスは赦しを得ようとしたが果たせず、ペトロスは処刑される前に、アリウスを異端として破門したという。

セウェルスの記述では、ペトロスは迫害のさなかに捕らえられて投獄された。知らせを受けた皇帝が斬首を命じたが、囚人のために死ぬ覚悟をした大勢のキリスト教徒が牢に集まって妨げた。兵士たちは群衆を殺すことも暴動を起こすことも望まず、処刑を遅らせた。ペトロスは信徒の命を案じ、兵士たちに、自分が指し示す壁に穴を開けて牢から連れ出し、刑を執行するよう提案した。そして肩衣を外して首をあらわにし、「命じられたとおりにせよ」と言った。しかし兵士たちは災いが降りかかるのを恐れ、誰も首を切ろうとしなかった。やがて6人の兵士が相談し、首を切った者に各自が五デナリずつ与えることにした。そのうちの一人が勇気をふるって進み出て、聖なる殉教者であり総主教であるペトロスの首を切った。その日はコプト暦のハトールの月の29日で、311年のことである。この日はユリウス暦の11月25日にあたり、現在のグレゴリオ暦では12月8日か9日にあたる。聖人の祝日は死去の日に祝うのが伝統であり、その日が祝日とされる。

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