伝記
足利義持は、室町幕府の第4代将軍である。1386年2月12日、第3代将軍足利義満の子として生まれた。母は側室の藤原慶子である。1394年12月17日、義満から将軍職を譲られ、9歳で将軍となり、同じ日に元服した。朝廷は初め、義満の先例にならって従五位下に叙す考えだったが、義満が満足せず、義満の権力の強大さを考えて、摂関家に準ずる位を与えた。しかし足利家の家督は義満が握り、政治の実権も義満のもとにあった。将軍として公式の活動を始めたのは、幼かったこともあって、1400年の幕府評定始からである。官位は急速に上がり、父の強い意向で、1402年には従一位に至った。1407年には子の義量が生まれた。
1408年5月6日に義満が死ぬと、家督相続の問題が起こった。義持は父と不仲で、異母弟の義嗣が父に偏愛されていたため、世間では義嗣が兄を押しのけて後継者になると見ていた。しかし義満は義嗣の元服の2日後に病に倒れ、遺言する時間がなく、斯波義将の主張で、義持が家督を継ぐことに決まった。朝廷は義満に太上法皇の尊号を与えようとしたが、義持と、義満の没後に政権を握った斯波義将の強い反対で退けられた。義持は6月に北山第に移り、義持が義満の後継者であることを世間に示した。義持はこのころから、所領を安堵し、寺社領の復興を行うなど、積極的な所領政策を進めた。1410年に斯波義将が死ぬと、義持は政策を一変させ、1411年に明との国交を断絶し、義満が開いた冊封関係を消した。斯波氏を幕政の中心から外し、管領には畠山満家を就け、富樫満成らの側近を重用した。1410年に後亀山上皇が吉野へ出奔し、1415年にかけては、旧南朝勢力によるとみられる蜂起が相次いだ。
1416年10月、関東で上杉禅秀の乱が起こった。義持は鎌倉公方の足利持氏の救援を決めたが、その翌日に義嗣が京都から出奔し、高雄に遁世した。義嗣は禅秀と手を組んで反逆を企てたという風聞があり、幕府では処遇が分かれた。禅秀の乱は1417年に持氏によって鎮圧され、義嗣は1418年1月24日に、義持の密命を受けた富樫満成によって殺害された。満成は権勢を高め、諸大名の反発も買ったが、同年11月に、義嗣の愛妾と密通していたことなどを告発されて失脚し、高野山に逃れたものの、のちに殺された。乱の後、持氏が反乱軍に与した大名を徹底して討伐したため、義持と持氏の間に溝が生まれ、1423年7月に対立は頂点に達した。義持は持氏の討伐を命じたが、持氏は1424年2月に起請文を送って和睦を申し出、両者は和睦した。
1423年3月18日に義持は義量へ将軍職を譲り、4月25日に等持院で出家して道詮と号した。出家は朝廷の反対を恐れて秘密のうちに行い、側近にさえ事前に知らせなかった。出家後も幕府の実権は義持が握り続けた。1425年2月27日に義量が数えの19歳で急死すると、男子がなかったため、義持は引き続き幕府を統括し、将軍職は約2年11か月、空位となったが、問題とはされなかった。義持は1428年1月18日に43歳で死去した。生前に後継者を定めなかったため、後継は籤で選ばれることになった。将軍在職の28年は室町将軍の中で最長である。
同じ年に亡くなった人物
- ゾフィー・フォン・バイエルン (1376-1428) (1428年没)
- マシュトラ (1428年没)
- ルドルフ3世 (ハッハベルク=ザウゼンベルク辺境伯) (1428年)
- 辺景昭 (1428年)
- 称光天皇 (1428年没)