伝記
ジョージ・バーンズは1896年1月20日、ニューヨークに生まれたアメリカの芸人で、俳優、コメディアン。本名はネイサン・バーンバウムという。ガリツィア地方(現在のポーランド)のロプチツェから移住したユダヤ系の家に、12人きょうだいの9番目として生まれた。父は地元のシナゴーグで代理の詠唱者を務めることもあったが、普段は外套のプレス工として働いていた。その父は1903年にインフルエンザの流行で、47歳で亡くなった。幼いネイサンは家計を助けるため、靴磨きや使い走り、新聞売りをして働いた。7歳のころ、菓子店でシロップ作りをしていて「見いだされた」と本人が後に語っている。別の説明では、同じ年ごろに街角で歌を聴かせる四重唱団ピーウィー・カルテットに加わり、芸人生活を始めたとされる。14歳で葉巻を吸い始めた。
第一次世界大戦でアメリカが参戦した1917年に徴兵されたが、極度の近視のため身体検査で不合格となった。ユダヤ系であることを隠すために、のちまで名乗る芸名を選んだとされる。本人は、2000本を超える安打を放った同姓同名の二人の野球選手にあやかったと語ったという。最初の妻は踊りの相手だったハンナ・シーゲルで、旅興行に出るための結婚だったため、巡業が終わると離婚した。彼はたいてい女性の相手とともに、ダンスや掛け合いの芸をしていたが、誰ともうまくいかなかった。1923年、若いアイルランド系カトリックの女性グレイシー・アレンに出会うと、それが一変した。1926年に二人は結婚した。コンビは舞台、ラジオ、映画、テレビと幅広く活躍した。1929年3月にはロンドンのパラディアム劇場で、「ラム・チョップス」という寸劇を演じた。
1920年代の終わりから1930年代の初めにかけて短編喜劇映画に出たのち、ビング・クロスビーと共演した『ラヂオは笑ふ』(1932年)、フレッド・アステアと共演した『踊る騎士』(1937年)、『踊るホノルル』(1939年)などに出た。『踊るホノルル』を最後に、その後およそ40年は映画に出なかった。1938年にはパラマウントが二人とクロスビーを組ませる企画を進めたが、脚本が合わず、男性二人の共演に書き直されて『シンガポールへの道』(1940年)になったという。ラジオでは、初め楽団長ガイ・ロンバードの番組で笑いを担当し、1932年2月15日には自分たちの番組が始まった。舞台の定番の芸や寸劇を生かした番組で、当初は二人が未婚の設定で、アレンが彼や共演者たちの思いを寄せる相手として描かれた。1935年4月には、フェルデ・グローフェが音楽監督に加わった。1950年に始まったテレビ番組『ジョージ・バーンズ&グレイシー・アレン・ショー』は9シーズン続く人気番組となり、エミー賞に何度も候補に挙がった。妻のグレイシーは心臓を患って1958年に引退し、1964年に亡くなった。
その後はたまにテレビに出る半引退の状態だったが、1975年、79歳でニール・サイモンの戯曲を映画にした『サンシャイン・ボーイズ』に出演してアカデミー助演男優賞を受賞した。これをきっかけに再び活発に活動し、神様の役を演じた『オー!ゴッド』(1977年)のシリーズなどで人気を得た。吊り上げた眉と葉巻の煙の間合いが、持ち味として知られた。1996年3月9日に没し、100歳まで生きた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョー・セネカ (1996年没)
- ベン・ジョンソン (俳優) (1996年没)
- アルトゥール・アクスマン (1996年没)
- カール・セーガン (1996年没)
- バブラク・カールマル (1996年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・グラブス (2021年没)
- ミルドレッド・マクダニエル (2004年没)
- エディ・マネー (2019年没)
- ポール・グリーソン (2006年没)
- イージー・イー (1995年没)