伝記
バブラク・カールマルは、1929年1月6日、カーブルの村に、スルタン・フサインとして生まれたアフガニスタンの政治家である。父は王国軍の中将で、パクティヤー州やヘラート州の知事を務めた人物とされる。母はペルシア語化したパシュトゥーン人の出で、モッラヘル部族の血筋だったという。六人きょうだいの長子で、裕福な家庭に育った。本人は生涯を通じてパシュトゥーン人とタジク人を状況に応じて使い分けて名乗り、父方がカシミール出身だとする説もある(一説に、祖父のハーシム・ハーンは1878年から1880年の第二次アフガン戦争のころカシミールからガズニに移り住んだという)など、民族的な出自をめぐる主張は今も食い違っている。ドイツ語で授業をする高校を1948年に卒業し、カーブル大学の法学・政治学部に進んだ。学生時代から急進的な活動で知られ、獄中でマルクス主義を教えられたとも伝えられる。1957年には名をカールマル(働き者)と改めた。
翻訳者や政府職員を経て、左翼政党のアフガニスタン人民民主党の創設メンバーとなった。王政期の1965年の選挙で下院議員に選ばれ、国会に議席を持った。1967年に党がハルク派とパルチャム派に分裂すると、パルチャム派の穏健派の指導者となった。1973年のムハンマド・ダーウードの政権掌握には同派も協力したが、ダーウードは1970年代半ばに左派の排除へ転じ、このことが1977年の党の再統合につながった。1978年の四月革命で党が政権を取ると、カールマルは革命評議会の副議長(副首相とも記される)に就いた。
しかし政権奪取後に党内の抗争が再燃し、ハルク派のハフィーズッラー・アミーンが台頭した。1978年7月5日、カールマルは解任されて駐チェコスロバキア大使に左遷され、プラハで事実上の亡命生活に入った。命を狙われることを恐れ、現地の秘密警察に守られて家族と森で暮らしたともいう。1979年にアミーンがタラキーを殺して権力を握ったのち、同年12月にソ連がアフガニスタンへ侵攻してアミーンは殺害された。カールマルはモスクワへ連れ出されたのち、ソ連に擁立される形で帰国し、革命評議会議長と党書記長に就任した。閣僚評議会議長も兼ね、1981年にスルタン・アリ・ケシュトマンドに譲るまで務めた。
政権の基盤をつくるため、タラキー、アミーン両政権下で投獄された人々への大赦を定めたほか、ハルク派の赤い国旗を伝統的な意匠の旗に替えた。だが宗教弾圧への反発やソ連一辺倒の路線への反対から、イスラム戦士(ムジャーヒディーン)の反政府活動が広がり、国民の目にはソ連の傀儡と映った。事態を収拾できないことでソ連の指導部は彼への批判を強め、ゴルバチョフのもとでナジーブッラーを後任に立てた。カールマルは1986年5月4日、「健康上の理由」で党書記長を辞し、同年11月20日には革命評議会議長などの職も辞して、モスクワで療養の名目で暮らした。1991年にアフガニスタンへ帰国し、1992年に人民民主党政権が倒れると、旧部下のラシッド・ドスタムのもとに身を寄せた。1996年12月、モスクワで肝臓がんにより亡くなった。没日は1日とも3日とも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- Raaj Kumar (1996年没)
- アンドレアス・パパンドレウ (1996年没)
- エルマ・ボムベック (1996年没)
- 里脇浅次郎 (1996年没)
- Audrey Patterson (1996年没)
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