伝記
アレクサンダー・フレデリック・ダグラス=ヒュームは、1903年7月2日にロンドンのメイフェアで生まれたイギリスの政治家、貴族で、第66代首相(在任1963年10月18日から1964年10月16日)を務めた人物である。スコットランド貴族ヒューム伯爵家の出で、父チャールズは、1918年4月に第13代ヒューム伯爵を継承し、母リリアンは第4代ダラム伯爵の娘だった。その長男として生まれ、父が爵位を継いだ1918年から自身が継ぐ1951年まで、ダグラス卿の儀礼称号を使った。イートン・カレッジを経て、オックスフォード大学クライスト・チャーチに進んだ。
1931年10月から1945年6月まで、保守党の庶民院議員を務めた。1937年から1939年にはネヴィル・チェンバレン首相の議会担当秘書官となり、1938年9月のミュンヘン会議にも同行している。第二次世界大戦中は病気のために政治活動を避けたが、第1次チャーチル政権末期の1945年5月から7月までの短い期間は職務に就いた。同年7月の総選挙では保守党が惨敗し、自身も落選した。1950年2月の総選挙でラナーク選挙区の議席を取り戻したものの、翌1951年7月11日に父が死去したため、ヒューム伯爵ほか4つの爵位を継いで貴族院に移った。
戦後の保守党政権では閣僚を歴任した。1956年7月に始まったスエズ戦争の間は、枢密院議長と貴族院院内総務を兼ねた。1960年7月にはマクミラン内閣の外務大臣に就任した。1963年1月にプロヒューモ事件が発覚してマクミラン政権の支持率が急落し、同年10月には、前立腺肥大で入院中だったマクミランが病室から辞意を表明した。女王エリザベス2世が病室を見舞って後任への意向を尋ねると、マクミランはヒュームを指名した。当時のヒュームは「タカ派」とされること以外はほとんど無名で、意外な人選と受け止められた。
1963年10月18日、バッキンガム宮殿に召されて組閣の大命を受けたが、首相の座をうかがっていたラブ・バトラーらが入閣の態度を保留したため交渉は深夜に及び、翌19日までにまとまって、バトラーを外相、モードリングを財務大臣とする内閣が発足した。貴族院議員が首相に就かない慣行を踏まえ、同年7月に制定された貴族法を使って一代限りで爵位を返上し、直後の選挙に出馬して当選し、庶民院議員に転じた。しかし経済に不案内で、経済問題に精通した労働党党首ハロルド・ウィルソンに見劣りした。ウィルソンは、保守党政権の続いた期間を「浪費された13年間」と批判し、14代伯爵が現代の国を率いるのは時代錯誤だとも指摘したが、ヒュームは相手を「14代ウィルソン氏」と皮肉るなど巧みに応じた。1964年10月の総選挙で保守党は304議席にとどまり、労働党が317議席を得たため、政権は1年足らずで終わった。
首相退任後は、党首選任のやり方が問題とされ、1965年にエドワード・ヒースに党首職を譲った。1970年6月から1974年3月まで、ヒース内閣で外務・英連邦大臣を務め、ソ連に強い不信感を持ち、1973年1月のEC加盟を達成した。1974年12月、一代貴族ヘイゼルのヒューム男爵に叙され、再び貴族院議員となった。1995年10月9日に死去した。温厚で誠実な人柄で、女王とは古い友人であり、バルモラル城で狩猟や犬の話に興じたという。
同じ年に亡くなった人物
- アニー・フィッシャー (1995年没)
- アレクサンダー・ノックス (1995年没)
- デヴィッド・ウェイン (1995年没)
- キングズリー・エイミス (1995年没)
- Layla Mourad (1995年没)
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- ジェームズ2世 (スコットランド王) (1460年没)
- ジョン・モンタギュー・ダグラス・スコット (第7代バクルー公爵) (1935年没)
- ディヴィッド・ブリュースター (1868年没)
- ステラ・テナント (2020年没)
- ウォルター・スコット (1832年没)