伝記
醍醐天皇は、885年2月6日(元慶9年1月18日)に生まれた日本の第60代天皇である。諱は維城、のちに敦仁と改めた。臣籍に降下していた源定省の長男、源維城として生まれ、現在に至るまで臣籍の身分で生まれた唯一の天皇とされる。母は内大臣藤原高藤の娘の藤原胤子で、養母は関白太政大臣基経の娘の藤原温子であった。仁和3年(887年)に父が皇籍に復帰して即位すると、これが宇多天皇であり、維城も皇族に列した。寛平元年(890年)に親王宣下を受け、寛平2年に敦仁と改名し、寛平5年(893年)4月に立太子した。このとき父から剣を与えられたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれる。
寛平9年(897年)7月3日に元服と同日に践祚し、同月13日に即位した。父の訓示である「寛平御遺誡」を受けて、藤原時平と菅原道真を左右の大臣とし、政務を任せた。在位は34年に及び、摂政・関白を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後世にその治世は「延喜の治」と称えられた。荘園整理令の施行、『日本三代実録』の完成、律令制の基本法である延喜格式の撰修への着手などが挙げられる。和歌の振興にも力を入れ、延喜5年(905年)には紀貫之らに『古今和歌集』の撰進を命じた。自身も和歌をよくし、勅撰集に計43首が入り、家集『延喜御集』も編んだ。33年間書き継いだ日記『延喜御記』全20巻は早くに散逸したが、逸文が『延喜天暦御記抄』として伝わる。
一方、昌泰4年(901年)に時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、「聖代の瑕」と評された。近年では、天皇と時平による宇多上皇の政治力排除の行動だったと考えられている。同じ年に時平の妹の藤原穏子が女御として入内し、のちに中宮に立っていることから、宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑える政策を転換する側面もあったとみられている。延喜9年(909年)に時平が死に、中宮穏子との間に生まれた長子の保明親王も延喜23年(923年)に21歳で早世した。そこで保明親王の子の慶頼王を皇太孫としたが、2年後に5歳で夭折した。こうした不幸は道真の怨霊のしわざと噂されたため、天皇は延喜23年に左遷の詔を覆し、道真を右大臣に復して贈位を行い、慰霊に努めた。
延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起こると、天皇自身は難を逃れたが、心労が重なったこともあって体調を崩した。9月22日、病が重くなり、皇太子の寛明親王に譲位した。寛明親王は保明親王の同母弟で、のちの朱雀天皇である。29日に出家し、同じ日に崩御した。宝算46。譲位の後、28日には宇多法皇の見舞いを受けたが、病状は回復しなかった。急遽、内裏から右近衛府の大将曹司に移されてもいた。翌月10日、山城国宇治郡の山科陵に土葬された。追号は近くの勅願寺である醍醐寺にちなみ、陵は長く醍醐寺の管理下にあったため、所在が確定できる数少ない平安時代の陵の一つとなっている。20人近い女御・更衣を抱え、36人の子女をもうけ、のちに朱雀天皇・村上天皇となる皇子もその中にいた。
寒い雪の夜に、諸国の民はどれほど寒いだろうと言って衣を寝室から投げ出したという逸話が伝わり、不作の年には民の負担を減らすため重陽の節句を何度も中止したともいう。後醍醐天皇は醍醐・村上の「延喜・天暦の治」を理想とし、生前から後醍醐という追号を定めていた。
同じ年に亡くなった人物
- 伊勢 (歌人) (930年代没)
- Ibn Wahshiyya (930年)
- フヴィーンのショーゾールヴル (930年)
- フクバルド (930年)
- Guy of Tuscany (930年)