HISTORICAL PERSON · 1351年没

夢窓疎石

鎌倉末から室町初期の臨済宗の禅僧・作庭家。後醍醐天皇から夢窓国師の号を受け、足利尊氏・直義にも崇敬された。天龍寺の開山で、天龍寺船の派遣を献策し、天龍寺と西芳寺の庭園は世界遺産に登録されている。

生涯
1351年没
死亡地
日本(京都府 / 臨川寺)
出生地
日本(伊勢国)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

夢窓疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけて活躍した臨済宗の禅僧であり、作庭家、漢詩人、歌人でもある。建治元年(1275年)11月1日、伊勢国に生まれた。宇多天皇の9世孫と伝えられ、母方は平氏である。幼いころに出家し、母方の一族の争いで甲斐国へ移り住んだ。弘安6年(1283年)に甲斐の天台宗寺院、平塩寺の空阿に入門して、真言宗や天台宗などを学び、正応5年(1292年)には奈良の東大寺で受戒した。永仁元年(1293年)、天台宗の碩学である明真の示寂に立ち会ったが、高僧が死に臨んで何も説かなかったことに疑問を抱き、密かに禅宗へ関心を寄せるようになったという。

その後は京都の建仁寺で無隠円範に禅宗を学んだ。無隠から智曤という法諱を与えられたが、のちに法諱を疎石と改め、道号を夢窓と自称した。永仁3年(1295年)には鎌倉に赴いて東勝寺の無及徳詮に学び、建長寺の葦航道然に教えを受け、翌年からは円覚寺の桃渓徳悟のもとで学んだ。しかし結局は帰京して、最初の師である無隠円範に再び参じた。正安元年(1299年)には元から渡来した一山一寧のもとで首座を務めたが、嗣法には至らなかった。日本語を解さない一山とのあいだで、禅の細かな点まで理解することが難しかったためという。嘉元元年(1303年)に鎌倉の万寿寺の高峰顕日に学び、嘉元3年(1305年)10月、浄智寺で高峰から印可を受けた。この年、甲斐に浄居寺を創建した。

応長元年(1311年)の春には人里離れた山中に龍山庵を結んで一時隠棲し、1313年には美濃国に古谿庵を、翌年には観音堂を開いた。文保2年(1318年)には北条高時の母である覚海尼の招きを避けて土佐国に下り、吸江庵を結んだ。正中2年(1325年)、後醍醐天皇の要望で上洛し、南禅寺の住持となったが、翌年に職を辞して鎌倉の瑞泉寺に戻った。元徳2年(1330年)には甲斐に恵林寺を創建した。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅びると、建武の新政を始めた後醍醐天皇に招かれて臨川寺を開いた。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ。建武2年(1335年)、後醍醐天皇から夢窓国師の国師号を授けられた。

延元4年(1339年)には幕府の重臣である摂津親秀に請われて、西芳寺の中興開山を行った。後醍醐天皇の死後には、疎石の勧めで尊氏が天皇らの菩提を弔うために全国に安国寺を建て、利生塔を置いたとされる。京都の嵯峨野には天龍寺を建立して開山となり、その建設資金を得るため、興国3年(1342年)に天龍寺船の派遣を献策した。1344年には、足利直義との対話を記録した『夢中問答集』を著した。足利家の内紛である観応の擾乱では、双方の調停も行ったとされる。弟子は数多く、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津らがいて、当時の五山で最大の派閥をなした。正平6年(1351年)9月30日、数え77歳で入滅した。生前と死後を合わせて7度、歴代の天皇から国師号を贈られたことから、「七朝帝師」と称えられた。庭園の設計でも知られ、西芳寺と天龍寺の庭園は世界遺産に登録されている。ほかに永保寺、瑞泉寺、竹林寺、恵林寺などの庭園も、その設計とされる。

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