HISTORICAL PERSON · 1441年没

足利義教

室町幕府の第6代将軍。籤引きで後継者に選ばれて還俗し、1429年に将軍となった。延暦寺を抑え、永享の乱で鎌倉公方足利持氏を敗死させるなど強権的に幕府の権威向上に努めたが、嘉吉の乱で赤松氏に暗殺された。

生涯
1441年没
死亡地
日本(京都府 / 京都市)
出生地
—
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

足利義教は、室町幕府の第6代征夷大将軍(在職1429年〜1441年)である。第3代将軍足利義満の子で、母は側室の藤原慶子。第4代将軍足利義持の同母弟にあたる。僧侶のときは義円、還俗の直後は義宣と名乗った。強権的な手法で幕府の権威を高めようとし、その手法は「万人恐怖」とも称されたが、最後は守護大名の赤松氏に暗殺された。

応永元年(1394年)6月13日に生まれ、幼名は春寅といった。応永10年(1403年)に青蓮院に入室し、応永15年(1408年)に得度して門跡となり、義円と名乗った。同じ日に異母兄弟の鶴若丸(足利義嗣)が叙爵されており、義円は義満の後継者候補から外れた。応永26年(1419年)には第153代天台座主となり、一時は大僧正も務めた。応永35年(1428年)1月、義持が病で危篤に陥っても後継者の指名を拒んだため、三宝院満済や管領畠山満家らは評議を開き、石清水八幡宮で籤引きを行って、義持の弟4人のなかから次の将軍を選ぶことにした。1月17日に籤が引かれ、翌日の義持の死後に開封されると、選ばれたのは義円だった。このことから「籤引き将軍」とも呼ばれる。義円は何度か辞退したが、諸大名が重ねて要請したため引き受けた。

法体の者が還俗して将軍となった先例はなく、朝廷の反対もあって、将軍の宣下はすぐには行われなかった。3月12日に還俗して義宣と名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。4月27日には、元号が応永から正長に改められたが、これは義宣の強い意向によるものだった。7月に称光天皇が危篤になると、義宣は伏見宮貞成親王の皇子彦仁王を密かに京都に移し、後小松上皇に後継者を決めるよう求めた。称光天皇の死後、彦仁王は即位した(後花園天皇)。正長2年(1429年)3月15日、義宣は義教と改名し、征夷大将軍となった。施策の手本は父義満に求め、義満時代の儀礼を復興した。後花園天皇の新続古今和歌集は義教の執奏によるもので、今に至るまで最後の勅撰和歌集となった。参加者を自ら指名する御前沙汰を協議機関とし、管領の権限を抑えた。義持の代から中断していた勘合貿易を再開し、駿河国へ下って富士山を遊覧している。また、有力守護に頼っていた軍事を改め、将軍直轄の奉公衆を強化した。裁断では「湯起請」やくじ引きといった神判を用いることもあった。

永享5年(1433年)、延暦寺の山徒が幕府の役人の不正を訴え、園城寺を焼き討ちすると、義教は激怒して比叡山を包囲した。永享6年(1434年)に、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通じて義教を呪詛しているとの噂が流れると、近江の延暦寺領を差し押さえ、比叡山一帯を封鎖した。坂本の民家に火をかけ、12月に和睦したが、義教は本心では許さず、永享7年(1435年)2月4日、山門使節の3人を京に招いて首をはねた。山徒は抗議のため根本中堂に火をかけ、24人が焼身自殺した。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出し、貞成親王は日記に「万人恐怖、言うなかれ」と記した。

その後も義教は、持氏を永享の乱で敗死させ、高さ四丈(約12メートル)の雲居寺大仏の再建を行い、九州や関東にも幕府の影響力を広げた。しかし、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、1441年、赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。これ以後、足利将軍の権威は低下し、義教ほどの実権をもつ将軍は現れなかった。

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