伝記
霍去病(かく きょへい)は、前漢の武帝の時代の武将である。紀元前140年に生まれ、紀元前117年に24歳で病没した。父は霍仲孺、母は衛少児で、衛子夫(のちの皇后)と衛青の姉にあたる。異母弟には、武帝の死後の政治を取り仕切った霍光がいる。冠軍侯に封じられ、死後に景桓侯と諡された。霍去病は、平陽公主(武帝の姉)の家に仕える下女の娘である衛少児と、そこで働いていた下級役人の霍仲孺との間に生まれた私生児だった。霍仲孺は身分の低い衛少児との結婚を望まず、彼女を捨てて故郷の女と結婚した。衛少児は子を手放さず、兄弟姉妹の助けを借りて育てた。霍去病が2歳ごろ、妹の衛子夫が武帝の目にとまり、異母弟の衛青とともに宮中へ迎えられた。衛子夫は武帝の最初の子を身ごもり、のち皇后に立てられる。衛青は重用され、一族も厚く遇された。衛少児は、漢の建国の功臣である陳平の玄孫の陳掌と通じており、陳掌は霍去病の義父となった。こうして一族が栄えるなかで、霍去病は豊かに育った。
騎射にすぐれ、十代のころから軍事の才を示した。紀元前123年、18歳で、匈奴を討つ叔父の衛青の軍に従い、初めて実戦に出た。衛青の本隊は1万を超える敵を討ち取ったが、先鋒の一隊が単于の軍に遭って全滅し、蘇建は兵を失って逃れ、趙信は匈奴に降った。このため衛青の軍は昇進できなかった。ただ、霍去病は800騎の軽騎兵を率いて遠く敵を探し出して討ち、単于の祖父と2千人余りを斬り、多くの匈奴の貴人を捕らえた。武帝は感心し、2,500戸の領地とともに冠軍侯に封じた。
紀元前121年には、河西回廊の匈奴に対し二度出撃した。春には1万の騎兵を率いて、6日のうちに五つの国を突破し、焉支山を越えて1,000里余り進み、匈奴の王二人と9,000人近くを討ち、祭祀に用いる金人も奪った。夏には龍西から出撃し、公孫敖の軍が遅れても、援軍のないまま2,000里余りを進んで居延沢を過ぎ、祁連山に至り、3万人余りを討って王十数人を捕らえた。こうして匈奴の渾邪王と休屠王の部族は大打撃を受けた。この年に、霍去病は史上初の驃騎将軍となった。紀元前119年には、匈奴の本拠を撃破する漠北の戦いで決定的な勝利を収め、衛青と並んで大司馬とされた。
霍去病と衛青は同時代に活躍した血縁であり、よく比べられる。衛青は少年のころ奴隷だった経験から人にへりくだり、下級兵士を気づかったといわれる。これに対し、霍去病は物心ついたときすでに一族が外戚で、叔父が匈奴討伐で大功を挙げていたこともあって傲慢であり、兵士が飢えているときに豪華な幕舎で宴会を開くこともあったという。それでも宮廷でも兵士の間でも、人気は霍去病が上だったとされる。武帝が孫子・呉子の兵法を教えようとしても、「昔の兵法を知る必要はなく、実戦のなかで考えればよい」と答えた。また、衛青が李広の末子の李敢に襲われたことに憤り、李敢を射殺したという逸話によって、義侠の士として人気があったともいう。
紀元前117年、霍去病は大功と武帝の寵愛により並ぶ者がないなか、病で世を去った。 「去病」は病が去るという意味の名だが、その名に反して早世した。墓は武帝の茂陵の近くにあり、現在は展望公園として整備され、墓の「霍去病」の字をなでると病気が治るという伝説がある。子の霍嬗は、武帝の封禅の儀で武帝と唯一ともに泰山に登ったと伝わり、奉車都尉に任じられたがまもなく夭折した。孫には霍山、霍雲らがいた。