HISTORICAL PERSON · 324年没

郭璞

西晋・東晋の文学者・卜者。文才と卜占の術で東晋の権力者に重用され、『爾雅』『方言』『山海経』に注した。代表作は「遊仙詩」「江賦」。王敦の乱の成否を占って「成る無し」と告げ、処刑された。

生涯
324年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(山西省 / 聞喜県)
出典
世界地図
中華人民共和国(山西省)

伝記

郭璞は、中国の西晋から東晋にかけての文学者であり、卜占を行う者でもあった。字は景純、河東郡聞喜県の人で、276年に生まれた。その文才と卜占の術によって、建国まもない東晋の権力者たちに重用された。史書や志怪小説『捜神記』などには、超人的な予言者・妖術師としての逸話が数多く残る。卜占・五行・天文暦法に通じただけでなく古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注をつけたことで知られる。文学作品では「遊仙詩」や「江賦」が代表作とされる。

寒門の家に生まれ、口は重かったが、博学で文章に巧みだった。郭公という人物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、古の京房や管輅をも凌いだと伝えられる。一方、別の記述では、地方長官の子として十分な教育を受け、若い頃に道教の神秘思想と占いを学んで、各地の官吏や有力者のために兆しを読み、事の成否を占ったともされる。

八王の乱で中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地がまもなく異民族に踏みにじられると予見した。そこで親類や友人の数十家とともに江南へ避難した。道中では様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという。307年に匈奴の一族が侵入したため一家が南へ移ったとする記述もあり、宣城を経て、最終的には建康に落ち着いたとされる。

江南に来た郭璞は、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心である王導に招かれて参軍となり、卜筮の術で大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後には将来を占い、銅鐸の出土や泉の出現といった、東晋中興の正統性を裏づける瑞祥を予見して、司馬睿の寵愛も受けた。東晋が建国されると「江賦」「南郊賦」を献上し、これらは世間で大いに評判になった。「江賦」は長江の姿を借りて晋の再興を称えたものとされ、文学者としての名声を確立した。元帝にも賞賛されて著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。朝廷の官職への任命は318年と320年のこととする記述もある。皇太子司馬紹(後の明帝)からは才能と学識を尊ばれ、有力者の温嶠・庾亮らと同等の待遇を受けた。322年に母を亡くして官を辞し、1年ほど喪に服したともいわれ、323年には、湖南・湖北一帯を押さえる王敦の幕僚に加わったとされる。

太寧2年(324年)、王敦が再び反乱を企て、郭璞に成否を占わせると、「成る無し」の結果が出た。王敦はかねて、郭璞が温嶠・庾亮らと親しく、彼らに自分の討伐をそそのかしているのではないかと疑っていたため、占いの結果に激怒して郭璞を処刑した。享年49であった。王敦の乱が平定されると、弘農郡太守が追贈され、子の郭驁が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った。郭璞は『楚辞』『穆天子伝』や司馬相如の賦などにも注をつけ、稀な語や典故を説明したその注は、しばしば唯一残る解釈でもある。作品は『隋書』経籍志に17巻とあったが、唐代には10巻、宋末までに『文選』所収以外は失われ、現存する賦は11篇を数え、古い言葉への深い理解を示す、「遊仙詩」は14首である。郭璞の注釈は多くの古典の理解に欠かせず、とくに『爾雅』『山海経』『方言』の注は、現在の標準的な版にも収められている。また、風水の古典『葬書』の著者とされ、中国では風水の祖と呼ばれることもあり、温州では旧城の設計者として語り継がれるが、これは南宋以降に現れた伝説とする見方もある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物