伝記
パリのディオニュシウスは、3世紀のパリの司教で、250年頃に殉教したとされるキリスト教の聖人である。カトリック教会で聖人とされ、フランスの守護聖人、また十四救難聖人の一人として知られる。名は「ディオニューソスの召使」を意味し、現在ではフランス語や英語で「ドニ」にあたる形で表記され、日本語では聖ドニ、サン・ドニと呼ばれることが多い。フランスの都市サン=ドニの名の由来でもある。トゥールのグレゴリウスは、彼をパリシイ族の司教で、剣で首を切られて殉教したと述べている。
生涯は伝説に彩られている。600年頃に成立した受難の書によれば、ディオニュシウスは3世紀、ガリアを改宗させるためイタリアから送り出された人物で、教皇ファビアヌスの指示のもとで送り出された伝道者の一人ともされる。それはデキウス帝の迫害でルテティア(パリの古名)のキリスト教徒の小集団が解散した後のことだった。彼は同志のルスティクスとエレウテルスとともに、セーヌ川のシテ島で暮らした。一方、245年にイタリアから来て、六人の仲間とともにガリアの福音化を命じられたとする伝承もあり、後の版では258年のウァレリアヌス帝の迫害のもとでの殉教が語られる。
後世の伝承では、ローマ総督フェスケニヌスがルテティアで三人を捕らえさせたとされる。ディオニュシウスは牢に入れられ、拷問を受け、火あぶり用の焼き網にかけられたうえで、モンマルトルの丘の頂にあるメルクリウス神殿での斬首を言い渡されたという。丘を登ることを拒んだ兵士たちは、中腹で三人の首を斬ったと語られる。多くの人々を改宗させたため、異教の僧侶の怒りを買い、ドルイドの聖地であったと思われるパリ近郊の最も高い丘で斬首刑に処された。この丘が現在のモンマルトルで、古いフランス語で「殉教者の山」を意味する名は、この殉教にちなむという。『黄金伝説』によれば、ディオニュシウスは斬り落とされた首を拾い上げ、説教をしながら数キロメートルを歩いた。説教をやめて本当に死んだ場所には小さな礼拝所が建てられ、のちに歴代フランス国王が埋葬されるサン=ドニ大聖堂になった。別の説では、遺体はセーヌ川に投げ込まれ、その夜、彼に改宗した者たちが収容して埋葬したという。
死後まもなく崇拝の対象となり、三人の遺体は殉教の地に葬られた。パリの人々の支援を受けた聖ジュヌヴィエーヴが、その名を冠したバシリカを創建した。やがてその名はフランス軍の鬨の声「モンジョワ・サン=ドニ」に使われ、墓所に奉献された旗は軍旗となった。754年にはフランス出身の教皇ステファヌス2世が崇敬をローマに持ち込み、崇敬はヨーロッパ中に広まった。800年以降は各地で祝われ、1568年に教皇ピウス5世によって正式に列聖された。祝日は10月9日で、悪魔憑きや頭痛のときに取り成しを願うと効果があるとされた。
少なくとも9世紀から、その伝説はパウロの弟子とされるディオニシウス・アレオパギタの伝説としばしば混同された。814年頃にルートヴィヒ1世がアレオパギタの著作とされる書物をフランスにもたらし、836年にはサン・ドニ修道院長ヒルドゥインが『アレオパギティカ』を著して混同はさらに広まった。美術では、司教の衣装とミトラを身に着け、斬られた自分の首を手に抱えた姿で描かれる。光背を首のあった場所に置く画家もいれば、手の中の首の周りに描く画家もいる。ただし、首なしの聖人はディオニュシウスに限られない。
同じ年に亡くなった人物
- ファビアヌス (ローマ教皇) (250年没)
- 龍樹 (250年)
- リキニアヌス (250年没)
- 提婆 (僧) (250年)
- テオドティオーン (250年没)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル・ココツェフ (1943年没)
- ジェラール・ウーリー (2006年没)
- ジャック・カゾット (1792年没)
- ジョルジュ・カルパンチェ (1975年没)
- デュ・バリー夫人 (1793年没)