伝記
デュ・バリー夫人は、ルイ15世の公妾である。1743年8月19日に生まれ、本名はマリ=ジャンヌ・ベキューという。フランスのシャンパーニュ地方(現在のムーズ県)の貧しい家庭に、当時30歳前後だったアンヌ・ベキューの私生児として生まれた。
母方の祖父ファビアンは美男の放蕩者として知られ、貴族の未亡人をその魅力で虜にして結婚し、貴族の称号の威光を借りて「ベキュ・ド・カンティニー」と名乗った。孫のジャンヌも「カンティニー嬢」と称されることがあった。母アンヌは1713年4月16日生まれの美貌の女性で、ジャンヌを産む前は修道院で裁縫師として働いていた。一説にはジャンヌの実父は修道士だったとされる。幼いころは愛くるしさから「天使」と渾名されたが、この渾名は実父の正体をほのめかすともいわれる。1747年に弟が生まれた後、間もなく母は駆け落ちし、ジャンヌは叔母に引き取られて育った。7歳のとき、母の美貌に魅了された裕福な金融業者デュ・モンソーが後見人となり、母は使用人と再婚して、ジャンヌはパリで暮らし始めた。後見人から大層かわいがられ、まともな教育を受けさせてもらえた。
15歳で修道院での教育を終えると、ある家の侍女になったが、素行上の問題で解雇された。その後は男性遍歴を重ね、娼婦同然の生活をしていたようだが、1760年にお針子として洋裁店で働き始めた。美しいジャンヌはやがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性と過ごした。相手には貴族や学者、アカデミー・フランセーズの会員もおり、このとき社交界で通用する話術や立ち居振る舞いを身につけたと推測される。
1769年にルイ15世に紹介された。1764年にポンパドゥール夫人を亡くしていた王は、彼女の虜になり、公妾にすると決めた。公妾になるには貴族と結婚しなければならず、子爵は弟ギヨームとの名目上の結婚を手配した。こうしてデュ・バリー夫人となり、正式にルイ15世の公妾として社交界にデビューした。王はルーヴシエンヌ城を改装して贈った。宮廷では、オーストリアから王太子ルイ=オーギュスト(後のルイ16世)に嫁いでいたマリー・アントワネットと対立した。娼婦や愛妾を嫌う母マリア・テレジアの影響を受けたマリー・アントワネットは、夫人の出自の悪さを徹底的に憎み、夫人を疎むルイ15世の娘たちがマリー・アントワネットを味方につけようと画策して、対立が深まった。とはいえ、夫人は朗らかで愛嬌のある性格で、宮廷の貴族には好かれていたという。
1774年4月27日、天然痘で倒れた王の看病に努めたが、5月9日に修道院へ入るよう命じられ、王から遠ざけられた。追放同然となったものの、人脈を使ってルーヴシエンヌで優雅に過ごし、元帥らの愛人になった。1789年にフランス革命が起こり、愛人のブリサック元帥が虐殺された後、1791年1月にイギリスへ逃れて亡命貴族を援助した。しかし1793年3月に帰国して革命派に捕らえられ、同年12月にギロチン台へ送られた。処刑人サンソンと知り合いだった夫人は、泣いて命乞いをしたといい、この様子に耐えきれなかったサンソンは息子に刑の執行を委ねた。危険を冒して帰国した理由は定かでないが、没収された城に隠した宝石を取り戻すためだったという説がある。50歳没。
同じ年に亡くなった人物
- シャルロット・コルデー (1793年没)
- アントワーヌ・バルナーヴ (1793年没)
- ジャン=マリー・ロラン (1793年没)
- ルイ=ミシェル・ル・ペトリエ (1793年)
- カール・フィリップ・モーリッツ (1793年没)
同じ地域に関係する人物
- エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵) (1788年没)
- エルヴェ (1892年没)
- パトリック・ドヴェール (1982年没)
- ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ (1695年没)
- ルイ・ド・ブルボン=コンデ (クレルモン伯) (1771年没)