伝記
ルーホッラー・ホメイニーは、1902年9月24日、イラン中部の人口1万に満たない小さな町ホメインに、預言者ムハンマドの直系子孫を意味するサイイドの家に生まれた宗教家、政治家である。シーア派第7代イマームの子孫を称する家柄で、出生名はルーホッラー・ムーサヴィーといった。のちに「ホメイン出身の者」を意味する名で呼ばれた。生後5か月のとき、法学者だった父が地元の人間に殺害され、母とおばたちに教育を受けた。16歳のときに二人とも亡くなり、その後は兄に教育を受けた。アラークで学んだのち、シーア派の聖地ゴムでイスラム法学を修め、上級法学者を意味する「アーヤトッラー」の称号を得た。
第二次世界大戦中の1941年ごろから、パフラヴィー皇帝の独裁的な西欧化政策に不満を表明した。1963年、皇帝が宣言した「白色革命」の改革に潜む独裁的な性格を非難し、抵抗運動を呼びかけて逮捕された。釈放後も政府批判を続け、翌1964年、国民への影響力を恐れた皇帝によって、国外へ追放された。皇帝の政策は、石油の輸出による外貨収入を背景に、工業化と西欧化を進めたが、急激な改革で貧富の格差が広がり、国民の反発を招いた。ホメイニーは、この運動の象徴的な存在だった。トルコに滞在したのち、イラクのシーア派の聖地ナジャフに移り、ここで、イスラム法学者が隠れ(ガイバ)のイマームに代わって信徒を統治すべきだという、「法学者の統治論」を唱えた。長男が突然死し、皇帝の秘密警察による暗殺とみられている。1978年にイラクを離れて、フランスに亡命してからも、国外から皇帝への抵抗を呼びかけ続けた。
1979年1月16日、皇帝とその家族がエジプトに亡命し、ホメイニーは2月1日に、15年ぶりに帰国した。ただちにイスラーム革命評議会を組織し、2月11日には、評議会が政府から権力を奪って、唯一の公式政府となった。「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票で、98パーセントの賛意を得て、4月1日、「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言した。「法学者の統治論」に基づいて、終身任期の最高指導者、国家元首となり、任期4年の大統領をも指導しうる立場に立った。これらの動きをイラン革命と呼ぶ。革命中は、シーア派イマームたちの殉教を、被抑圧者の抵抗の象徴とし、革命を「イスラームに基づく被抑圧者解放」と主張して、貧困層や世俗的な中産階級の支持も取り付けた。
しかし革命の達成後は、世俗主義者や社会主義者を「イスラームの敵」として弾圧するなど、事実上、宗教独裁の体制を敷いた。新政権は、アメリカ大使館人質事件やイラン・イラク戦争などの危機にもまれたが、ホメイニーは諸政策に強い影響力を保った。1988年には、公益に適うならば、政府の令が伝統的なイスラム法に優先すると表明し、条件つきで楽器とチェスを解禁した。1989年2月14日には、イギリスの作家サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を冒涜的だとして、作者らに死刑を宣告し、各国から強い反発を招いた。1989年6月3日に86歳で死去した。最期の言葉は、「灯りを消してくれ、私はもう眠い」だったと伝えられる。後継の最高指導者は、アリー・ハーメネイーである。葬儀には、当時のイランの人口の6分の1にあたる約1000万人が集まり、棺の蓋が開いて、遺体が落下するなどの混乱も起きた。遺体は、テヘラン南部のホメイニー廟に祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- ハロルド・ジェフリーズ (1989年没)
- フランツ・ビンダー (1989年没)
- コンラート・ローレンツ (1989年没)
- アイリーン・プリングル (1989年没)
- ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン (1989年没)
同じ地域に関係する人物
- Farrokhroo Parsa (1980年没)
- マスード・アリ=モハマディ (2010年没)
- モハメド・ビジェ (2005年没)
- アレクサンドル・グリボエードフ (1829年没)
- シャー・ルフ (1447年没)