HISTORICAL PERSON · 1989年没

コンラート・ローレンツ

オーストリアの動物行動学者。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物の一人として知られる。ウィーン大学で医学と動物学を学んだ。

生涯
1989年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

コンラート・ツァハリアス・ローレンツは、1903年11月7日、オーストリア=ハンガリー帝国時代のウィーン近郊に生まれた動物行動学者である。ノーベル賞受賞の際に書いた自伝的エッセイで、両親が「私の動物への尋常ではない愛情に対して、おそろしく寛容だった」ことと、ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』がガンへの情熱を満たしたことが、科学者として重要だったと認めている。子供のころ、手製の網でミジンコを捕まえた経験から、自然の世界に美しさと不思議があることを知ったともいう。ウィーン大学の医学部で学んで医師の資格を得、さらに同大学で動物学を学んだ。父の願いで、1922年にコロンビア大学で医学を学び始めたが、1923年にはウィーンに戻って研究を続けた。1928年に医学博士となり、解剖学研究所で1933年まで助教授を務めて、同年に動物学で二つ目の博士号を取得した。1936年に、本能に関する国際シンポジウムで、重要な友人となるニコ・ティンバーゲンと出会い、二人はともに野生や家畜、雑種のガチョウを研究した。

1938年にナチ党に入党して、ナチ体制下で大学の職を得た。入党申請書には、「私の研究の全てが国家社会主義思想のために捧げられると、私は言うことができます」と書いた。当時の出版物は、ナチへの共感によって研究が汚されているという非難を、後に引き起こすことになった。1940年にケーニヒスベルク大学の心理学の教授となり、1941年に国防軍に徴兵された。バイクの整備士を望んだが、軍医として配属され、すぐソ連軍の捕虜となった。1942年から1948年まで捕虜収容所で拘束され、その間も医者として働いて、何人かのロシア人と親しくなった。解放されたとき、書きためた原稿と、ペットのムクドリを持ち帰ることを許された。原稿は『鏡の背面』に使われた。

1949年に、一般読者向けに動物行動学を説明する著書『ソロモンの指環』を刊行した。1950年にマックス・プランク協会がデュルメンに研究所を設立し、1957年にはミュンヘン大学動物学科の名誉教授となった。1958年に別の行動心理学研究所へ移った。1969年にユネスコからカリンガ賞を受け、チーノ・デル・ドゥーカ世界賞の最初の受賞者となった。1973年に、ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。1974年にオーストリアに戻り、科学アカデミーの動物社会科学研究所の所長になった。ティンバーゲンとともに、本能行動を説明するために、生得的解発機構の概念を発展させた。ハイイロガンの雛に母親と間違えられた体験から、刷り込み現象の発見に至ったとされる。ただしその説は、のちに擬人化が過ぎるという批判も受けた。最も大きな功績は、動物行動の観察という当時は軽視されていた古典的な手法を、厳密に用いて、科学の名に値するものに仕立てたことである。人生の終わりごろには、オーストリア緑の党を支持した。動物の行動は種の維持のためにあると考えていたが、のちに個体や遺伝子のためと解釈されるようになり、彼はその新しい見方の受け入れには消極的だった。1989年2月27日に没した。

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