伝記
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・グリボエードフは、帝政ロシアの外交官で、劇作家、詩人、作曲家である。モスクワの名門貴族の家に生まれた。生年は1795年1月15日とされるが、1790年とする伝記作者もおり、確定していない。1829年2月11日に没した。息子の出世を望んだ母は、最良の教育を受けさせた。モスクワ大学の文学部と法学部を修め、言語学の修士号を得て、博士課程にも進んだ。フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語に通じ、アラビア語、ペルシア語、トルコ語などの東方の言語も身につけた。プーシキンは、彼を当時のロシアで最も聡明な人物の一人と評した。
1812年に博士課程をやめて祖国戦争に参加し、軽騎兵連隊の将校となったが、1816年に退役した。翌年に官吏となり、1818年にペルシアに駐在するロシア公使館の書記官に任じられて、のちにグルジアに移った。音楽の才にも恵まれ、ピアノ、オルガン、フルートを演奏し、アイルランド人のピアニスト、ジョン・フィールドに師事したとされる。グリンカは彼を非常に優れた音楽家と見て、自宅の集まりにはオドエフスキー、アリャビエフらが出入りした。ワルツを幾つか作曲したが、現存するのは2曲のみで、イ長調と変イ長調のワルツである。1824年のオペラ・ヴォードヴィル「兄は誰、妹は誰」は、ヴャーゼムスキーとの共作である。
文学では、1816年にペテルブルクで、フランスの劇に基づく韻文喜劇『若い夫婦』を上演した。最もよく知られるのは、1823年に完成した韻文喜劇『智慧の悲しみ』で、1816年に、ペテルブルクの人たちが外国人に平身低頭している姿を見て憤慨したことが、きっかけになったという。モスクワ貴族社会を風刺し、改革を嫌うファムーソフ、役人にこびるモルチャーリン、西欧かぶれのレペチーロフらを、西欧から戻った皮肉屋の主人公チャツキーがあばく。その言葉は、1825年のデカブリストの反乱へ向かう若い世代の叫びと響き合った。検閲で許可されず、写本が出回ったが、生前に出版を見ることはなく、初版は没後4年の1833年となり、舞台を見たのも、エレバンの守備隊の将校が演じたときのみであった。失望してグルジアに戻り、1826年から1828年のロシア・ペルシア戦争では、親戚のパスケヴィチ将軍のもとで語学力を発揮した。
戦争後はペテルブルクでトルコマーンチャーイ条約の交渉に関わり、文学に専念しようとグルジアの伝説に基づくロマン的な劇『グルジアの夜』に着手した。1828年にイラン大使に任命されて着任した。1829年、ファトフ・アリー・シャーのハーレムから逃げてきたアルメニア人の少女数名を大使館にかくまい、引き渡しの要求も拒んだ。これを、不平等な同条約の象徴と見た熱狂的な暴徒が大使館に押し入り、彼は大使館員とともに惨殺され、斬首された。友人のプーシキンは、旅の途中で、遺体を運ぶ馬車に出会ったと伝わる。ロシア政府は激怒して責任者の処罰を求め、シャーは孫のホスロー・ミルザを中心とする使節団を送って謝罪した。この時に皇帝ニコライ1世に贈られたのが、シャー・ダイヤモンドである。
同じ年に亡くなった人物
- ハンフリー・デービー (1829年没)
- ニールス・アーベル (1829年没)
- レオ12世 (ローマ教皇) (1829年没)
- マリア・ホセファ・デ・サホニア (1829年没)
- ポール・バラス (1829年没)
同じ地域に関係する人物
- マフムード・ナムジュー (1990年没)
- Shahram Amiri (2016年没)
- トゥグリル・ベグ (1063年没)
- ナーセロッディーン・シャー (1896年没)
- ソフラーブ・セペフリー (1980年没)