伝記
チャールズ・ジョン・ペダーセンは、日本名を安井良男といい、1904年10月3日に、当時の大韓帝国の慶尚南道、釜山付近で生まれたアメリカの化学者である。航海技師だったノルウェー人の父ブレーデは、故郷の家庭の問題から外に出て、朝鮮半島に渡り、税関で働いた。のちに現在の北朝鮮にあたる雲山の鉱山で機械技師を務めた。母の安井タキノは、福岡県出身の日本人で、家族とともに朝鮮に渡り、鉱山の近くで大豆や蚕の貿易を手がけて成功した。両親はその地で知り合った。ペダーセンは3人きょうだいの末っ子で、病気で亡くなった兄がいて、姉アストリッドは5歳年上だった。本人の回想では、母が兄を亡くしたばかりのころに生まれたため、歓迎されていないと感じたという。鉱山はアメリカ人が所有する広大なもので、彼は主に英語を話して育った。
8歳ごろまで朝鮮半島で過ごし、1910年からは日本の統治下となった。長崎県に移って学び、10歳で横浜に転居し、インターナショナルスクールのセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジで学んだ。家がマリア会と深い関係にあったことから、アメリカの大学を選び、化学を学ぶため1922年にアメリカ合衆国へ渡って、オハイオ州のデイトン大学で化学工学を学んだ。テニスに打ち込み、大学のテニス部で4年間プレーして、3年と4年のときには主将を務めた。1926年に卒業し、マサチューセッツ工科大学で修士課程を修了して、有機化学を修めた。大学の教授らは、残って博士課程に進むよう薦めたが、父に学資を負担させ続けることを嫌い、実務の世界に移った。このためノーベル化学賞の受賞者としては珍しく、博士号を持たない人物になった。
1927年、指導教授の紹介で、デュポン社に研究員として入社し、65歳で退職するまで42年間勤めた。最初はニュージャージー州のジャクソン研究所で働き、のちにウィルミントンの中央研究所で経歴を終えた。研究の自由を与えられ、金属の不活性化剤の発見や、ガソリンの添加剤の製造法の改良、合成ゴムの開発などに貢献した。この間に、25の論文と65の特許を残した。1967年に発表した2本の論文で、彼は、クラウンエーテルと名づけたリング状の分子が、金属イオンなど電荷を持つイオンを捕らえて安定した構造をつくることを明らかにした。この発見は超分子化学の礎を築き、論文は今日、化学の論文の中でも最も偉大なものの一つとされる。この分野の研究を深めたドナルド・クラム、ジャン=マリー・レーンとともに、1987年にノーベル化学賞を受賞した。
1983年に骨髄腫と診断され、体は急激に弱っていったが、1987年には、病身に鞭打って、授賞式のためにストックホルムまで旅をした。受賞の2年後、1989年10月26日に死去した。両親はノルウェー人と日本人で、受賞時の国籍はアメリカ合衆国だったが、ノーベル委員会のホームページは、受賞者を出生地で分類するため、現在の韓国の出身と表示している。日系アメリカ人としては初のノーベル化学賞の受賞者であった。
同じ年に亡くなった人物
- リー・ヴァン・クリーフ (1989年没)
- アマドゥ・アヒジョ (1989年没)
- アブドゥッラー・アッザーム (1989年没)
- フランコ・ルアンボ・マキアディ (1989年没)
- 胡耀邦 (1989年没)
同じ地域に関係する人物
- ユージン・ウィグナー (1995年没)
- ジェームス・J・ブラドック (1974年没)
- ジム・ブラウン (1994年没)
- イマヌエル・ヴェリコフスキー (1979年没)
- ロバート・オッペンハイマー (1967年没)