伝記
J・ロバート・オッペンハイマーは、1904年4月22日にニューヨークで、ドイツからのユダヤ系移民の子として生まれた理論物理学者である。第二次世界大戦中に原子爆弾の開発を指導したため、「原爆の父」として知られる。父ジュリアスは17歳でドイツからアメリカに渡った人物で、母エラ・フリードマンは画家であった。一家はユダヤ人だったが、ユダヤ教への信仰はなかった。幼い頃は祖父から贈られた鉱石の標本に夢中になり、12歳でニューヨーク鉱物クラブの会員の前で論文を発表した。倫理文化学園では非常に成績優秀だったが、成績のよさを鼻にかけるところがあり、内気で運動は不得手だったためいじめにも遭った。1921年に卒業したが、赤痢と大腸炎のために一年間の療養を強いられた。
1922年9月にハーバード大学に入って化学を専攻し、飛び級により1925年に3年で首席卒業した。物理学に興味を持ち、ケンブリッジ大学のラザフォードのもとでの研究を志したが、キャヴェンディッシュ研究所で学ぶことになった。しかしそれまで体系的に物理学を学んでいなかったため、簡単な実験の準備もできず、精神的に追い詰められて、友人に飛びかかって首を絞めようとしたこともあった。静養して快方に向かい、そこでニールス・ボーアと出会って、実験中心から理論中心の物理学の世界に入った。ここでの研究がゲッティンゲン大学のマックス・ボルンの目に留まり、1926年の夏の終わりに同大学へ移って、7本の論文を書き、1927年に博士号を得た。ボルンとの共同研究である「ボルン-オッペンハイマー近似」は、分子を量子力学的に扱うものである。
アメリカに帰国後、多数の大学からの誘いがあったが、理論物理学が浸透していなかったカリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授となり、1936年には両大学の教授になった。バークレー校では物理学者アーネスト・ローレンスと親交を深めた。授業は当初、早口で評判が悪かったが、やり方を見直して人気が出た。湯川秀樹を招いて中間子の講義を依頼した際には、湯川が数分話すと、後はオッペンハイマーが代わって講義を行ってしまったという。1930年代末には、中性子星やブラックホールに関する先駆的な研究も行った。もともと政治経済には無関心で、1929年の株価大暴落を知ったのは半年後だったというほど世事に疎かったが、ナチスによるユダヤ人の排斥を機に政治に関心を持つようになり、左傾化した。1937年から交際した女性の影響で左翼系の組織の集会に参加し、献金も行った。その後、独ソ不可侵条約やソ連での粛清を知って、共産主義活動をやめている。
1942年6月にマンハッタン計画が始まると、責任者のグローヴス大佐に指名され、科学部門の責任者に任じられた。研究者としての業績やノーベル賞の受賞実績、管理職の経験がなく、左翼的な思想もあって障壁があったが、グローヴスが問題ないと判断して反対意見を押し切った。研究者を一か所に集めるべきだと進言し、ニューメキシコ州のロスアラモスが選ばれて、1943年4月15日に研究所が開所した。ここで開発された原爆は、1945年7月のトリニティ実験を経て、同年8月に広島と長崎に投下された。戦後は原子力の国際管理を主張し、水素爆弾の開発に反対した。1954年に過去の共産党との関わりなどを理由に聴聞会が開かれ、公職を追放された。この処分は、2022年に不公正な手続きだったとして取り消された。プリンストン高等研究所の所長を1966年まで務め、1967年2月18日に咽頭がんで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- カール・サンドバーグ (1967年没)
- ピート・ジョンソン (1967年没)
- グレイス・キュナード (1967年没)
- ベンノ・オーネゾルク (1967年没)
- ハーバート・モリソン (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- フランク・R・パウル (1963年没)
- ゲイリー・ジェニングス (1999年没)
- ベン・E・キング (2015年没)
- ジェイムズ・パーディ (2009年没)
- ブルーノ・ハウプトマン (1936年没)