伝記
アマドゥ・ババトゥラ・アヒジョは、1924年8月24日に、現在のカメルーン北部のガルアで生まれた政治家で、同国の初代大統領を務めた。当時のガルアは、フランスの委任統治領だった。母はフラニ人で、奴隷の血筋であり、父は村長だった。母にイスラム教徒として育てられ、幼いころはコーラン学校に通った。1932年に地元の官立の小学校に入ったが、1938年に最初の修了試験に失敗し、数か月、獣医の部署で働いた。学校に戻って、翌年に修了の資格を得て、その後の3年間は、首都ヤウンデの高等小学校で、公務員になるための勉強をした。学校ではサッカーをし、自転車の競技にも出場した。
1942年に、郵便局の無線通信士として公務員になった。仕事でドゥアラやンガウンデレなど、国中のいくつもの大都市に赴任した。公式の伝記作者によると、北部出身の公務員として、南部で働いた最初の人物であった。各地での経験が、国民としての意識を育み、多民族国家を統治するための賢明さを与えたといわれる。1946年に地方政界に入り、1953年から1957年にはフランス連合議会の議員を務めた。1957年にはカメルーン立法議会の議長となり、同じ年に副首相となった。1958年2月、ムビダが辞職すると、34歳で首相に就任した。キリスト教会や、北部のイスラム教の貴族層に対して穏やかな態度をとり、1950年代に高まる抗議運動を懸念する保守派の連合を体現した。首相としては、フランスと協力して、独立に向けて進めた。パリでの交渉は10月まで続き、フランスの信託統治の終了とカメルーンの独立の日付は、1960年1月1日とされた。
1960年にカメルーンが独立すると、初代大統領に選ばれ、当時イギリスの信託統治領であった西カメルーンに、加わるよう呼びかけた。1960年代には、フランスの影響に反対する急進派の政党、カメルーン人民同盟の反乱を経験したが、フランス軍の助けも得て、1970年までに押さえこんだ。反乱を終わらせるため、緊急事態を宣言し、権力を集める法案を提案して、認められた。1965年、1970年、1975年、1980年の選挙でも勝利し、1966年にはカメルーン民族同盟を軸に一党体制を築いた。1972年には連邦制を廃止して、統一国家にした。1976年には他の政党を禁止している。政策の多くは独裁的であったが、同時にアフリカで最も安定した国の一つになったと言われる。
1982年11月4日、健康上の理由で大統領職を突然辞した。辞任をめぐっては諸説あり、一般には、フランス人医師が虚偽の診断をしたとされる。後任には、首相だったポール・ビヤが2日後に就任した。自身と同じ北部のイスラム教徒ではなく、南部のキリスト教徒であるビヤを選んだことは、大きな驚きを与えた。1983年にはビヤとの確執が深まり、7月19日にフランスに亡命した。ビヤはアヒジョの権威を示すシンボルを取り除き、8月には、アヒジョが関与したとされる陰謀を暴いたと発表した。1984年2月、1983年6月のクーデター計画に関与したとして、本人不在のまま死刑を宣告され、のちに終身刑に減刑された。本人は否定したが、同年4月のクーデター未遂は、アヒジョによって進められたと広く信じられている。余生をフランスとセネガルで過ごし、1989年11月30日にダカールで死去した。
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