HISTORICAL PERSON · 240年代没

卑弥呼

倭国大乱の後に各国が共同で王に立てた邪馬台国の女王。鬼道に仕え、人前に姿を見せなかった。魏に使者を送って親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授かり、死後は径百余歩の塚が築かれ台与が王に立った。

生涯
240年代没
死亡地
日本(滋賀県 / 日本)
出生地
倭国(邪馬台国)
出典
世界地図
日本(滋賀県)

伝記

卑弥呼は、倭国を治めたとされる邪馬台国の女王である。建寧3年(170年)頃に生まれ、正始9年(248年)に没したとされるが、生没年は確かではない。『魏志倭人伝』をはじめとする古代中国の史書にその名が見え、日本側の記録ではなく外国の史書によって知られる人物である。出身地や出自についての記述は、卑弥呼が登場する史書のどれにもない。名は『三国志』魏書の帝紀では「俾弥呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑弥乎」と書かれ、新羅本紀には173年に倭の女王卑弥乎が新羅に使者を送ったとの記事もある。

倭国では男性の王が続く時代があったが、のちに内乱が起こった。後漢の桓帝と霊帝のあいだ(146年から189年)のことで、倭国大乱と呼ばれる。そこで各国が共同して一人の女子を王に立てた。それが卑弥呼である。独身で、鬼道に仕えて人々を惑わしたと記される。鬼道はシャーマニズムのことだろうと推測され、骨を焼いて吉凶を占う風俗もあり、卑弥呼も占いを行う巫女であった可能性が高いとされる。王となってからは、その姿を見た者は少なかった。ただ一人の男子だけが飲食の給仕や言葉の取り次ぎのために出入りし、弟が国の政治を助けたと伝わる。宮室には楼観や城柵が厳重に設けられ、千人の侍女が仕えていたという。夫を持たなかったことについては、神聖性を保つためだけでなく、女王の夫や子が王位継承に関わるのを避けるためだったとする見方もあり、弟は本来王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する祭祀を担う最高の祭司だったのではないかとも論じられている。

卑弥呼は魏との外交を進めた。景初2年(238年)6月、使者の難升米らが帯方郡に到着し、同年12月、魏の都洛陽で、親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えるとの詔を受けた。景初3年とする説もある。正始元年(240年)には帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書と印綬を倭王に授けた。正始4年(243年)には、大夫の伊声耆や掖邪狗ら八人が返礼のため魏に遣わされ、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。正始6年(245年)には難升米に黄幢が授けられた。魏の側では、卑弥呼は形式の上で広く倭人全体の王にあたる「親魏倭王」と呼ばれるようになったが、実質は邪馬台国を中心とする連合の女王にとどまったと推定されている。

正始8年(247年)、倭は載斯と烏越らを帯方郡に送り、卑弥弓呼が治める狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書と黄幢を授けた。このころ卑弥呼は亡くなり、倭人は直径百余歩の大きな塚を築き、奴婢百余人が殉葬されたとされる。ただし247年は実際には帯方郡の新しい太守王頎が着任した年で、卑弥呼の没年は事実上不明だという指摘がある。247年か248年、さらに後の嘉平年間とする学者もいる。

卑弥呼の死後には男王が立ったが国は乱れ、互いに殺し合って千人余りが死んだ。そこで卑弥呼の宗女の台与を王に立てると、国中がようやく鎮まった。台与は掖邪狗ら20人に張政の帰国を送らせ、魏の都へ生口30人や白珠5,000孔などを献上した。墓については諸説がある。径百余歩を約144メートルと見て、奈良県桜井市の箸墓古墳を最有力とする考えが、現在は半ば定説化しつつあるという。卑弥呼の死を日食と結びつける説もあったが、247年も248年も日本の主要な比定地では部分日食にとどまるため、関連には疑問が持たれている。九州説の立場からは、平原1号墓や祇園山古墳が挙げられてきたが、年代の面で課題が指摘されている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物