伝記
クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌスは、2世紀から3世紀にかけてのキリスト教神学者である。生年は160年ごろ、没年は220年ごろとされるが、240年とする記録もあり、確かではない。ラテン語で著作したラテン教父の系統に属する最初の一人で、ラテン語で文学作品を残した最初のキリスト教著述家ともいわれる。
カルタゴ(現チュニジア)に生まれた。生涯についてはほとんど知られておらず、分かることの大半は彼自身の著作から得られる。伝承では、ローマ軍の百人隊長の子で、法律を学んだ弁護士であり、叙階された司祭でもあったとされる。しかし、これらは主にエウセビオスやヒエロニムスの記述に基づく。法学の知識も、十分な教育を受けたローマ人に期待される程度を超えないとされ、司祭だったかどうかも疑問視されている。彼は自らを信徒の立場に置くような箇所を著作に残している。それでも法学と修辞学を学んだことは確かで、その知識をキリスト教の擁護に生かした。アフリカは弁論家の地として名高く、アルカイックな語や地方語を交えた文体、鮮やかな比喩、激しい気性にその影響が見える。少なくとも2冊のギリシア語の著作を書いたが、現存しない。
キリスト教への改宗は197年か198年ごろとされ、197年にはローマで洗礼を受けていたことが分かる。改宗の事情は不明だが、殉教者たちの姿に心を動かされたことが背景にあるとみられる。妻に宛てた2冊の書物から、キリスト教徒の妻がいたことが分かっている。カルタゴに戻った彼は、信仰を異教徒に弁明する文書と、正統信仰を異端から守る論駁書を数多く著した。『護教論』『ユダヤ人反駁』『魂の証について』『見世物について』『祈りについて』『女性の服装について』『マルキオン反駁』『異端者への抗弁』などがある。『異端者への抗弁』は彼の精神が最もよく発揮された著作とされる。
彼は、神学や弁証学を聖書以外のものに基礎づけることに激しく反対し、聖書の充全性を唱えた古代の人々の中でも最も強力な一人に数えられる。「アテネとエルサレムと何の関係があろうか。アカデメイアと教会と何の関係があろうか」と問い、世俗の哲学を持ち出す人々を厳しく批判した。「殉教者の血は教会の種」という言葉もよく知られる。一方、「不条理なるが故に我信ず」という言葉はしばしば彼の言葉とされるが、実際にはその通りには述べていない。
厳格なキリスト教徒であろうとした彼は、207年ごろ、モンタノス派の「新しい預言」に惹かれ、主流の教会を離れたらしい。モンタノス派の中でも衝突を起こし、自分のグループ(テルトゥリアヌス派)を作ったようだが、これについては確かなことは分からない。アウグスティヌスの時代にもカルタゴには彼の名を冠した一団が聖堂をもっていたが、その後教会に移った。そのため重要な神学者でありながら、正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会のいずれにおいても列聖されていない。モンタノス派の時期に書かれた最も重要な著作『プラクセアス反駁』では、のちの三位一体論とキリスト論の論争に大きく影響する「一つの本質における三つの位格」という定式を示した。彼はキリスト論と三位一体論を体系的に論じた最初の人物で、『護教論』など31編が現存する。ヒエロニムスは彼がかなりの高齢で死んだと述べるが、ほかに確かな証拠はない。彼はキプリアヌスの師となり、のちにラテン神学の主要な創始者となるアウグスティヌスの先駆者となった。
同じ年に亡くなった人物
- サビニアヌス (僭称者) (240年代没)
- 卑弥呼 (240年代没)
- ヘロディアヌス (240年没)
- ピロストラトス (240年代没)
- セクストゥス・ユリウス・アフリカヌス (240年没)
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