伝記
ハインリヒ5世は、13世紀のルクセンブルク伯である。ドイツ・フランス系の領主で、フランス語ではアンリ、金髪伯とも呼ばれた。1216年に、リンブルフ公ヴァルラム3世と、その2度目の妻でルクセンブルク女伯のエルメジンデとの間に、三男として生まれた。父は1226年に亡くなり、ハインリヒはアルロンの領地を受け継いだ。リンブルフ公位は異母兄が継いだが、ハインリヒは母方からルクセンブルクを継ぐ立場にあった。1247年に母が没すると、ルクセンブルク伯とラ・ロシュ伯の位を継承して、リンブルフ=ルクセンブルク家の始祖となった。
1240年、バル伯アンリ2世とフィリッパ・ド・ドルーの娘マルグリットと結婚し、持参金としてリニーを受けた。ただしリニーは、あくまでバル伯の封土という条件がついていた。1253年には、フランドルとエノーの継承をめぐる戦争のなかで、ウェストカペッレの戦いに加わった。皇帝側の軍が、ギー・ド・ダンピエールの軍を破った戦いである。1256年には、持参金の条件に背いて、シャンパーニュ伯ティボー5世(ナヴァール王ティボー2世)に臣従の礼をとった。義兄にあたるバル伯ティボー2世は、ロレーヌ公フェリー3世とメッツ司教の争いを好機とみて、復讐に動いた。ハインリヒはロレーヌ公と結び、バル伯はメッツ司教と手を組んだ。同じ年、ラテン皇帝でナミュール侯のボードゥアン2世がコンスタンティノープルにいる間に、ナミュールを奪った。ボードゥアンはナミュールの権利をギーに譲り、ギーが攻め込んで取り戻した。1262年にはビットブルクに都市法を与えている。ハインリヒは1256年から1264年までナミュール侯を名乗り、のちにギーと和解して、娘のイザベラ(イザベル)が1264年にギーと結婚した。
1266年9月14日、ハインリヒはプレニーの戦いでバル伯の軍に敗れ、捕虜となった。1268年9月8日、フランス王ルイ9世の仲裁でバル伯の宗主権のもとでリニーの領主となった。1270年には十字軍に参加した。ルイ9世に従ってチュニスへ向かったとも、教皇から1万5千トゥール・リーヴルを受けてイングランドのエドワードに従ったともいわれる。出発にあたっては、領地の統治を長男に任せた。マムルーク朝との休戦が成ると、残った家臣を連れて帰ったという。この1270年には、娘のフィリッパがエノー伯ジャン2世と結婚している。多くの戦いに関わった一方で、調停役としても、有能な領主としても認められたという。
ハインリヒは1281年12月24日に亡くなり、母エルメジンデと並んで、クレールフォンテーヌ修道院に葬られた。妻マルグリットは1275年に先立っていた。子には、ルクセンブルク伯を継ぐハインリヒ6世、リニー領主ワレラン、修道院長となったヨハンナらがいる。娘のマルグリットはマシュランの女領主で、ジャック・ブルテルが詩にうたったショーヴァンシーの馬上槍試合に名が見える。庶子のハインリヒは、ウッファリーズの女子相続人イザベルと結婚した。息子たちは1288年のヴォリンゲンの戦いで、そろって戦死した。ハインリヒ5世の孫は1308年にローマ王に選ばれ、ルクセンブルク家はその後1437年までに4人の皇帝を出した。
同じ年に亡くなった人物
- エルトゥールル (1281年没)
- ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク (1281年没)
- イヴァイロ (ブルガリア皇帝) (1281年没)
- John II of Brandenburg-Stendal (1281年)
- Anna of Hungary (1281年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルタ・オーバーホイザー (1978年没)
- イジドー・ストラウス (タイタニック号事故の犠牲者)
- アドルフ・ガーランド (1996年没)
- ルートヴィヒ5世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1626年没)
- バルドゥール・フォン・シーラッハ (1974年没)