HISTORICAL PERSON · 紀元前280年没

ヘロフィロス

古代ギリシアの医学者。人体解剖に基づき理論を組み立てた最初の人物とされ、脳が神経系の中枢であることを突き止め、多くの解剖学用語を創案した。

生涯
紀元前280年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県 / アレクサンドリア)
出生地
トルコ共和国(カルケドン)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(アレクサンドリア県)

伝記

ヘロフィロスは、古代ギリシアの医学者である。小アジアのカルケドン(現在のトルコのカドゥキョイ)に生まれた。生没年は紀元前335年ごろから紀元前280年ごろとされるが、確かなものではない。師がコス島のプラクサゴラスであること、同じ世代にエラシストラトスらがいること、アレクサンドリアの医師として知られたことなどから推定されたもので、紀元前330年から320年ごろに生まれ、紀元前260年から250年ごろに没したとする見方もある。カルケドンはボスポロス海峡の東の入り口にあり、ビュザンティオンの対岸に位置するギリシア人の都市である。

医学の修業をどこで積んだかははっきりしないが、コス島のプラクサゴラスを師としたことは知られている。コス島はヒポクラテス派の学派で名高い土地で、師のもとで学んだのはコス島だったと考えられるが、アレクサンドリアだった可能性も残る。のちにアレクサンドリアに居を定め、紀元前3世紀前半に医療を行った。この都市はアレクサンドロス大王の死後、将軍プトレマイオスが王となって学者を集め、学術の中心となっていた。ヘロフィロスは弟子たちとともに、よい物質的条件のもとで研究に打ち込むことができた。

ヘロフィロスは、病気の問題を中心とするヒポクラテスの伝統とは異なり、健康な身体を調べて、その正常なはたらきを理解しようとした最初期の医師の一人である。その手段が解剖であり、人体を解剖に基づいて理論を組み立てた最初の人物とされる。当時、人体の解剖はたいていの都市で禁じられていたが、アレクサンドリアでは行うことができた。彼はしばしば公開で解剖を行い、見物人に説明しながら進めたという。この研究によって、脳が神経系の中枢であり知性の在処であることを突き止め、神経を血管と区別し、さらに運動神経と感覚神経を区別した。静脈と動脈の区別、脈拍の性質の分析も行った。目、肝臓、膵臓、消化管、唾液、生殖器などにも研究は及んだ。多くの解剖学用語を創案し、現在もその一部が使われている。脳の静脈洞交会が「ヘロフィロスの槽」の名で呼ばれるのも、彼にちなむ。

ヘロフィロスは医学に経験法を導入し、経験に基づく知識の獲得を重んじた。そのため科学的方法の開祖の一人と見なされるが、ガレノスは経験法は合理性を否定するものだとして彼を批判した。著作は解剖学のほか、脈拍、治療、養生、産科に及び、解剖学の論考は9編を数えるとされる。しかし、アレクサンドリアの図書館の火災などにより、いずれも現存しない。ガレノスやケルススらの著作に多くの引用が残る。エラシストラトスを弟子に招いたともいわれ、二人でアレクサンドリアに医学校を興し、各地から学生が集まったと考えられている。

なお、テルトゥリアヌスはヘロフィロスらが600人の囚人を生きたまま解剖したと非難し、「狂信的な屠殺人」と呼んだ。ケルススも、王から引き渡された罪人の生体解剖を伝える。だが、確かな証拠はなく、ガレノスがこの点に触れていないことなどから、疑問視する歴史家もいる。ヘロフィロスの死後、人体解剖はしだいに行われなくなり、約1600年後にモンディーノ・デ・リウッツィが再開するまで途絶えたという。古代の解剖学は、ヒポクラテスに始まり、アリストテレスを経て、ヘロフィロスとアレクサンドリア学派で人体解剖によって大きく革新された。のちのルネサンスの解剖学者ヴェサリウスは、ヘロフィロスと同じように、解剖した人体の綿密な観察に基づいて古代の大家たちに疑問を投げかけた。

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