HISTORICAL PERSON · 1556年没

トマス・クランマー

イングランドの聖職者でカンタベリー大司教。ヘンリー8世の離婚問題への助言で王に抜擢され、イングランド宗教改革を主導した。のち殉教者とされる。

生涯
1556年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / オックスフォード)
出生地
イギリス連邦(アスロックトン)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

トマス・クランマーは、イングランドの宗教改革を主導した聖職者で、カンタベリー大司教を務めた人物である。1489年7月2日、ノッティンガムシャーのアスロックトンに、地方のジェントリの家の次男として生まれた。12歳で父を亡くし、14歳でケンブリッジ大学に入った。学士号の取得には八年を要し、その間に中世スコラ学の書物を集め、生涯手放さなかったという。修士号ののちにジョーンという女性と結婚したためフェローの地位を失ったが、ジョーンが初めてのお産で亡くなると、大学は彼のフェローの地位を回復させた。その後は神学を学んで司祭となり、1526年に神学博士の学位を得た。

1529年、友人のスティーブン・ガーディナーらに、ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題について、ヨーロッパ中の神学者の意見を求めてはどうかと提案した。これが王に有利な案であったため、ガーディナーらの引き立てで王に登用された。神聖ローマ皇帝カール5世のもとへ大使として派遣された大陸ではプロテスタントに触れ、1532年には神学者オジアンダーの妻の姪マルガレーテと再婚して、また非難を招いた。同年11月に帰国し、翌1533年3月、亡くなった前任者の後任として、王の指名でカンタベリー大司教に就任した。学究肌で政治を好まなかったが、この地位のため、王への忠誠と自らの信仰の間で悩むことになったという。

アンとクランマーはともにプロテスタントの福音主義に共鳴しており、それも指名の理由の一つとされる。大司教として、王とアン・ブーリンの極秘の結婚式に立ち会い、4月の法廷ではキャサリンとの結婚を無効と宣言して、アンとの再婚を認めた。翌1534年の国王至上法により、王はイングランド教会の最高の首長とされ、イングランドはカトリックから離れて国教会が生まれた。アンが産んだ王女エリザベスの代父も務めた。その後もヘンリー8世の度重なる結婚に関与したが、1536年にはアンと王の結婚を無効と宣言し、アンの処刑後はジェーン・シーモアとの結婚を承認した。他方で、トマス・モア、アン・ブーリン、トマス・クロムウェルらの弁護や助命の訴えも行ったが、叶わなかった。1538年にはクロムウェルとともに、英語訳聖書を全教会に備えるよう王を説得し、1539年に『大聖書』が刊行されている。王の存命中は保守派と改革派の争いのため大きな変更は少なかったが、最初の公認の英語による礼拝文『勧告と連祷』を出している。1543年には保守派の陰謀で異端容疑により逮捕される寸前となったが、王の信任は変わらなかった。

1547年に王が死去し、エドワード6世が即位すると、サマセット公のもとで改革を進め、1549年と1552年に共通祈祷書を制定した。英語による礼拝の体系を整え、聖餐や聖職者の独身制などの教義や規律も改めたとされる。しかし1553年にエドワード6世が没し、ジェーン・グレイの擁立が失敗すると、即位したカトリックのメアリー1世のもとで、クランマーはロンドン塔に投獄された。1555年9月に異端として破門と死刑が決まった。獄中で何度も信仰の撤回を表明してカトリックに復帰したが、女王が処刑を望んだため助からず、処刑当日の1556年3月21日、オックスフォードで、それまでの撤回を公に取り消した。転向書に署名した右手を最初に炎に入れたと伝えられ、火刑で世を去った。その死はフォックスの『殉教者列伝』に記され、共通祈祷書と三十九か条は、国教会に今も受け継がれている。

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