伝記
フマーユーンは、1508年3月6日、ティムール朝サマルカンド政権の君主バーブルとマーハム・ベーグムの長男として、アフガニスタンのカーブルで生まれた。同年、トルコ・モンゴル式の伝統に従い、バダフシャーンからカーブル北東部にかけての地を任され、統治を経験した。1526年、父がパーニーパットの戦いでローディー朝のイブラーヒーム・ローディーを破った際には、バダフシャーンから引き連れた軍勢とともに右翼に布陣した。この勝利でムガル帝国が成立し、彼は皇太子となった。戦勝後には父から700万ルピーと宝物を貯蔵した蔵を与えられたという。その後、彼はデリー、アーグラ北部から北ビハールまでを征服したが、インド征服後はアフガニスタンへ戻り、中央アジアから攻めてくるウズベク族から辺境を守り続けた。
1530年、フマーユーンはカーブルで激しい高熱に襲われて危篤に陥った。母マーハムが彼をアーグラへ連れていくと、バーブルは自らの命を息子の身代わりにしようと祈り、寝床の周りを3回歩いたと、姉妹の記録に伝えられる。すると彼は回復し、バーブルが病に倒れて12月26日に没した。こうして彼は帝国を継いだが、その地位は極めて不安定だった。実際に支配が及ぶのはジャウンプルからデリー、パンジャーブに至る限られた地域で、次兄カームラーンをはじめ三人の弟がそれぞれ広い領地を握り、皇位を狙う恐れがあった。1531年にラクナウ郊外でマフムード・ローディーの軍を破ってローディー朝再興の望みを断ち、1535年にはグジャラートのバハードゥル・シャーを破ってグジャラートとマールワーを制圧し、版図を倍増させた。チャーンパーネールの城砦を攻めた際には自ら梯子で城壁を登るほど勇敢だったという。
だが、新領土の支配体制を固めることを怠り、グジャラートを弟アスカリーに任せてマーンドゥーで快楽に溺れた。経験の浅いアスカリーの下で反乱が起こり、両地方は帝国の手を離れた。さらに、かつてチュナールで降伏を受け入れたアフガン系スール族のシェール・ハーンが東方で勢力を伸ばした。1537年、フマーユーンは東へ出兵し、チュナールの占領に6か月を費やしたが、その間にシェール・ハーンはベンガルの首都ガウルを占領した。ガウルに入った後はアーグラとの連絡を絶たれて退却を余儀なくされ、弟ヒンダールがデリーで皇帝を自称する動きもあった。1539年6月、チャウサーで和議を探るうちに奇襲を受けて大敗し、7千人あるいは8千人が戦死した。翌1540年5月、カナウジで再び敗れ、軍の大部分はガンジス川で溺れ死んだ。
彼はラホールへ逃れたが、弟たちは支援を拒み、カーブルへの避難も認めなかった。シンドからラージプーターナーの砂漠へと落ち延び、ムガル帝国は一時的に滅亡した。カンダハールとカーブルはカームラーンの手に渡っており、彼は領土のすべてを失った。砂漠で兵を集めて帝国再建を練ったが、シンドの諸王もマールワール王国のマールデーヴをはじめとするラージプートも援助せず、亡命生活は長く苦しいものとなった。1541年9月には、当時14歳でシーア派のペルシア人であるハミーダ・バーヌー・ベーグムと結婚した。拒む彼女に求愛し続けたといい、ディルダール・ベーグムの説得もあった。この後、彼は1555年に帝位に復し、1556年1月27日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- イグナチオ・デ・ロヨラ (1556年没)
- Sebestyen Tinodi Lantos (1556年)
- フズーリー (1556年没)
- ロレンツォ・ロット (1556年没)
- Patriarch Dionysius II of Constantinople (1556年没)
同じ地域に関係する人物
- ムフティ・ムハンマド・サイード (2016年没)
- ムハンマド・シャー (サイイド朝) (1445年没)
- プラナブ・ムカルジー (2020年没)
- クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー (1320年没)
- Hazari Prasad Dwivedi (1979年没)