伝記
ハーバート・ヘンリー・アスキスは、1852年9月12日にウェスト・ヨークシャーで生まれたイギリスの政治家で、のちに初代オックスフォード=アスキス伯爵となった。父は羊毛業者のジョゼフ、母はエミリーで、兄ウィリアムと妹エベリンがいる。1860年に父が亡くなると母の実家に身を寄せ、兄とともにリーズ郊外のモラヴィア兄弟団系の寄宿学校に入った。1862年には祖父の死で母が実家を出ることになり、兄弟はロンドンの伯父に引き取られたが、伯父の引っ越しでイズリントンの医者のもとに預けられた。こうして家を転々とする半孤児のような少年時代を送った。古典で優秀な成績を収めて奨学金を得、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに進んだ。大学では常に首席で、学生クラブの活動にも熱心だった。
1875年に卒業してロンドンに出ると、リンカーン法曹院で学びながら先輩の弁護士の助手を務めた。わずか9か月ほどで独立開業したが人脈が乏しく、経営は苦しかった。1876年に医者の娘ヘレン・メランドと結婚し、3人の男子と1人の女子をもうけた。1883年頃に司法長官に注目されて以降、弁護士業は軌道に乗った。1886年の総選挙に自由党候補として出馬し、自由党の地盤の選挙区で初当選した。翌年3月、アイルランド強圧法に反対する処女演説を行い、保守側のチェンバレンにも褒められた。党内では、ローズベリー伯爵らとともに「自由帝国主義」派に属した。
名をあげたのは1889年である。党首パーネルがアイルランド担当相の暗殺に関与したとほのめかす『タイムズ』紙の記事が捏造だと、パーネルの依頼で調べて証明した。記事を書いた者は追及を苦に自殺したが、アスキスは『タイムズ』紙の支配人を追及し、十分な調査もせずに載せたことを明らかにした。これでパーネルの人気は高まり、アスキスの知名度も上がって、1890年春には勅選弁護士に任じられるほどの有力な弁護士となった。1892年8月には内閣不信任案の提出を任され、雄弁な演説で3日後に可決させた。グラッドストンは彼を内務大臣に抜擢したが、政務次官を経ない者を閣僚にするのは異例であった。内相としてトラファルガー広場でのデモに自由な方針を定め、工場法を改正して女性の検査官就任を認めた。爆破テロの容疑者を釈放せよというアイルランド国民党の要請は退け、1893年の労使対立による暴動では、軍隊の投入に主導的な役割を果たした。続くローズベリー内閣でも留任し、1895年の総辞職までその職を務めた。
野党期の自由党では、ボーア戦争をめぐって立場が割れた。1905年にキャンベル=バナマン内閣に蔵相として入閣し、1908年にその後を継いで首相となった。ロイド・ジョージやチャーチルの補佐を受け、1908年に老齢年金法、1910年に富裕層への課税を含む「人民予算」、1911年に貴族院の拒否権を制限する議会法と国民保険法を成立させた。人民予算と議会法で貴族院と激しく対立し、1910年中に総選挙を2度行ったが、自由党は単独過半数を得られなかった。外交では海軍増強に力を入れてドイツと建艦競争を行い、1914年8月4日、ドイツ軍のベルギー侵攻を理由に宣戦した。戦況が消耗戦となるなか、1915年5月に総辞職に追い込まれ、保守党との挙国一致内閣で乗り切ったが、1916年12月にロイド・ジョージらによって首相の座を降ろされた。その後、自由党は二派に分裂したが、1923年末に再統一され、1925年に伯爵に叙された。1926年に政界を引退し、1928年2月15日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- Martin Kukucin (1928年没)
- レオン・ベノワ (1928年没)
- エミール・ファヨール (1928年没)
- マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后) (1928年没)
- ルース・スナイダー (1928年没)
同じ地域に関係する人物
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- エリザベス・ジェニグス (2001年没)
- ジョン・ウォリス (1703年没)
- トーマス・ヒル・グリーン (1882年没)
- ウィルフレッド・ビオン (1979年没)