伝記
イグナチオ・デ・ロヨラは、1491年6月1日頃または10月23日頃、カスティーリャ王国領バスク地方ギプスコアのアスペイティアにあるロヨラ城で生まれた。当初の名はイニゴ・ロペス・デ・ロヨラで、「イグナチオ」の名の初出は1531年のパリ大学の登録簿である。改名の理由は明らかでないが、アンティオキアのイグナティオスに因むとされ、家族や親しい人の間では1540年代終わり頃までイニゴの名も用いられた。13人兄弟の末っ子で、7歳で母を失い、1506年には親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を務めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。1517年以降は軍務に就いて各地を転戦したが、1521年5月20日のパンプローナの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養することになった。
療養中、騎士道物語を読みたかったが城にはなく、仕方なくイエス・キリストの生涯の物語や聖人伝を読み始めた。やがて聖人たちのように自己犠牲的に生きたいという望みが生まれ、とりわけアッシジのフランチェスコに影響され、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させる夢を抱くに至った。健康を回復した1522年3月25日、モンセラートのベネディクト会修道院を訪れて世俗の生き方との決別を誓い、武具を聖母像の前に捧げ、マンレザの洞窟にこもって黙想した。そこで啓示を受けたとされる。元軍人だっただけに、以後の彼の言葉には軍事的な用語やイメージがよく用いられた。このころすでに、霊的指導を求めて来る人々に行った黙想のテーマ集として、『霊操』の原案をまとめていたという。
アルカラ大学を経て、1528年にはパリ大学に入学し、一般教養と神学を学んだ。パリでの7年の間に多くの人々が霊的指導を求めて訪れ、1534年までに、ピエール・ファーヴル、フランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、シモン・ロドリゲスの6人が同志となった。1534年8月15日、7人はモンマルトルの丘のサン・ドニ記念聖堂で、唯一の司祭だったファーブルのミサにあずかり、エルサレムでの宣教と病院での奉仕、あるいは教皇の望むところへ赴くことを誓った。これがイエズス会の始まりとされる。1537年、ローマで教皇パウルス3世から司祭叙階と聖地巡礼の許可を得たが、戦乱のため聖地への渡航は断念し、イタリア国内で説教と奉仕に専念した。1540年9月27日、パウルス3世は回勅『レジミニ・ミリタンティス』で会を正式に認可した。当初は会員数を60名までとする条件が付いたが、1543年の回勅で撤廃された。
ロヨラは初代総長に選ばれ、会員を欧州各地に派遣して一般学校と神学校を創設させた。シチリア総督に招かれてメッシーナに開いた大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となった。1548年には『霊操』の決定版が出版され、ローマの異端審問所の審査を受けたが、すぐに解放された。1554年版の会憲は、会員に上長と教皇への「軍隊のごとき」服従を求め、彼の座右の銘「神のより大いなる栄光のために」が会のモットーとなった。1553年から1555年には生涯を口述して自伝を残した。ロヨラは1556年7月31日にローマで死去し、1609年に列福、1622年に列聖された。
同じ年に亡くなった人物
- Patriarch Dionysius II of Constantinople (1556年没)
- Giovanni della Casa (1556年)
- ルイージ・アラマンニ (1556年没)
- ドミンゴ・マルティネス・デ・イララ (1556年)
- ロレンツォ・ロット (1556年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエトロ・ジェルミ (1974年没)
- アレッサンドロ・トゥルキ (1649年没)
- ディオニュシウス (ローマ教皇) (268年没)
- グイード・マゼッティ (1993年没)
- ガエターノ・モスカ (1941年没)