伝記
ジャンニ・ロダーリは、1920年10月23日にイタリアのオメーニャで生まれ、1980年4月14日にローマで没した作家・ジャーナリストである。とくに児童文学で知られ、1970年には国際アンデルセン賞を受賞した。20世紀イタリアで最も重要な児童文学作家とみなされ、その作品は多くの言語に翻訳されている。
パン屋の息子として生まれ、1929年に父を気管支肺炎で亡くした。母は兄弟のジャンニとチェーザレを連れて、自分の生地であるヴァレーゼ県のガヴィラーテに戻り、パン屋は父方の叔父に任せた。1931年に母は、ジャンニをカトリックの神学校に入れたが、息子に合わないと気づいて、1934年に人文系の師範学校に移した。そのころは音楽に熱中し、ヴァイオリンを習って、友人たちと居酒屋などで三重奏を演奏した。文学ではニーチェやショーペンハウアー、レーニン、トロツキーなどを読み、批評の感覚を磨いたとされる。1937年に17歳で教員免状を取り、ヴァレーゼ県の小学校で教えるようになった。若く経験が浅いため、教える質は高くなかったと本人は語っているが、子どもたち自身が空想を出し合って彼の創作を助ける楽しい授業で、これは作品の大きな特徴にもなった。1939年にミラノの大学へ入ったが、わずかな試験を受けただけで学業をやめている。
第二次世界大戦中は、病身のため兵役を免れた。のちに生活の苦しさから、公職に就く条件だったファシスト党に入らざるをえなかったとされる。兄弟のチェーザレがナチスの捕虜収容所に入れられたこと、そして親友の死に衝撃を受けたことから、1943年にレジスタンス運動に関わり、1944年にはイタリア共産党に加わった。解放後は、地元の出版物で働き、1947年にはミラノの左派の新聞「ウニタ」に入った。1948年からは同紙で児童文学を書き始め、のちに子ども向けの欄も受け持った。1950年にローマへ移り、少年向けの週刊誌の創刊と編集にも携わった。
1951年に最初の本『わらべ歌の本』と『チポリーノの冒険』を刊行した。同じ年には、初めての教育書を出版して、冷戦のさなかにヴァチカンから破門されたと伝わる。1952年に初めてソ連を訪れ、その後も頻繁に訪れた。1953年に結婚し、1957年にはプロのジャーナリストとなる試験に合格し、この年に娘パオラが生まれた。のちの作品に『青矢号のぼうけん』(1954年)、『うそつき国のジェルソミーノ』(1958年)、『電話で送ったお話』(1962年)、『空にうかんだ大きなケーキ』(1966年)、『ファンタジーの文法』(1973年)、『二度生きたランベルト』(1978年)などがある。1979年にソ連旅行の後で健康を害し、執筆量を減らした。1980年、ローマで手術中に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- パスクアル・ヨルダン (1980年没)
- ゲイル・パトリック (1980年没)
- Jose de Anchieta Fontana (1980年没)
- Muriel Freeman (1980年没)
- ジェイコブ・ミラー (1980年没)
同じ地域に関係する人物
- オラウス・マグヌス (1558年没)
- エウゲニウス2世 (ローマ教皇) (827年没)
- ルキウス・リウィウス・アンドロニクス (紀元前200年没)
- エンニオ・モリコーネ (2020年没)
- サビニアヌス (ローマ教皇) (606年没)