伝記
ルキウス・リウィウス・アンドロニクスは、共和政ローマ時代の劇作家・詩人である。数多くの古代ギリシアの文芸作品をラテン語に翻訳し、ローマの劇作およびラテン文学の父と呼ばれる。生年は紀元前280年ごろ、没年は紀元前200年ごろとされ、生まれは南イタリアの繁栄したギリシア人都市タレントゥムと考えられている。生年を紀元前284年ごろとする説もある。幼いころのことはほとんど分かっていない。
伝承によれば、紀元前272年にローマがタレントゥムを占領した際に捕虜となり、ローマ市へ連れて来られたという。名前の後半、アンドロニクスというコグノーメンがギリシア風であることから、ギリシア人の奴隷だったと考えられている。買い主は、シビュラの書管理十人委員の一人であったマルクス・リウィウス・サリナトルとされ、そこで息子たちの家庭教師となり、のちに解放された。解放後は自由人として、リウィウスの氏族名を名乗ったとされる。ただ、この説どおりなら幼い子どもとして連れて来られたことになり、後に文学者として活躍する素養を身につけるには無理があるとの指摘もあり、確実な話ではない。解放されたのは、教師としての功績によると推測されている。彼はおそらくローマで最初のギリシア語教師であり、ラテン語とギリシア語を貴族の子弟に教えたため、上流階級の人々はギリシア語を学ぶ利点に気づきはじめたという。
アンドロニクスは、ローマで最初の叙事詩を書いた詩人でもあった。古いラテン語のサティルヌス文体を用いてホメロスの『オデュッセイア』を訳し、これは長く学校の教材として使われたが、古典期には素朴で価値が低いとみなされ、軽んじられた。紀元前240年には、まだ洗練されていなかったローマの人々に、形式の整ったギリシア劇を上演して見せたと言われる。この年は第一次ポエニ戦争にローマが勝った頃にあたり、おそらく主人サリナトルの影響力もあって、ローマ大祭で上演するラテン語の劇の制作と監督を任されたとされる。古代の史料が挙げる年代のうち、確実なのは紀元前240年と紀元前207年だけだと見られている。キケロは、初演をエンニウスの生まれる前年の紀元前240年とする説のほか、紀元前209年とする異説も紹介している。
歴史家ティトゥス・リウィウスによれば、当時の他の作家と同様に、アンドロニクスも自作の劇で演じていたが、アンコールに応えすぎて声がかれてしまい、奴隷に歌わせて自分は演技に集中するようになったという。紀元前207年、第二次ポエニ戦争のさなかに凶兆が相次ぐと、9人の乙女からなる3つの集団が歌いながら市中を巡る清めの儀式が神祇官によって定められ、その歌を作曲したのがアンドロニクスだと伝えられる。その後にローマがメタウルスの戦いで勝つと、功績を讃えてアウェンティヌスのミネルウァ神殿で、作家や役者が集まって奉献する権利が与えられたという。同年の執政官はリウィウス・サリナトルであるが、コネではなく実力で国家から依頼を受けたと考える学者もいる。この行列歌はローマ初のラテン語の抒情詩とされ、感謝のしるしとして当局が詩人と役者の組合を認め、神殿に集会の場を与えたという。こうして作家や役者の組合が形づくられ、ラテン語の演劇は洗練されていき、プラウトゥスの後期作品には高度な演出や演奏が要求されるようになった。彼の作品は、他の著作に引かれた断片の形で伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- イェホシュア・ベン・シモン2世 (紀元前200)
- ガイウス・テレンティウス・ウァロ (紀元前 200年(推定))
- アウルス・ホスティリウス・マンキヌス (紀元前 200年(推定))
- カーラヴェーラ (紀元前 200年(推定))
- ルキウス・アウレリウス・コッタ (紀元前144年の執政官) (紀元前 200年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- ジュリオ・ドゥーエ (1930年没)
- カルロ・ルスティケッリ (2004年没)
- エリオ・ペトリ (1982年没)
- ベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ (2002年没)