HISTORICAL PERSON · 606年没

サビニアヌス (ローマ教皇)

第65代ローマ教皇。グレゴリウス1世に教皇大使としてコンスタンティノポリスへ派遣された経歴をもつ。飢饉の時も年貢を取り立て庶民の人気は低かったとされる一方、聖職者の数を大いに増やしたと賞賛された。

生涯
606年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ブレーラ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

サビニアヌスは、第65代のローマ教皇である。在位は604年から606年で、606年2月22日に世を去った。生年は分かっていない。在位はわずか2年ほどにとどまった。ローマがまだ東ローマ帝国の支配下にあった時代の教皇で、コンスタンティノポリス駐在の教皇大使を務めた経験者としては、四人目にあたる教皇となった。

生地はラツィオ地方のブレーラ(現在のイタリアのヴィテルボ県)である。ローマ教会で経歴を重ね、助祭の位に至った。教皇グレゴリウス1世は彼を高く評価して、教皇大使として東ローマ皇帝の宮廷へ送り込んだ。しかし、その働きはグレゴリウスの目には十分とは映らなかったようである。595年ごろには、皇帝マウリキウスとの間で、コンスタンティノポリス総主教ヨアンネス4世に「全地の総主教」の称号を与える問題が論じられたが、その席での彼は毅然さに欠けていたらしい。同年のうちに召還され、ガリアへ使節として派遣され、597年にローマへ戻った。別の記述は、彼がこの任務を快く思わず、そのために帰国したと伝えている。

グレゴリウスの後継に選ばれたのは604年で、その年の9月13日に教皇の座に就いたと伝えられる。皇帝の承認を待ってから叙階されたという。先代が教皇庁の刷新に向けて、聖職者や俗人を要職から外し、ベネディクト会の修道士に任せる方針をとったことへの反発が、この選出の背景にあったとみられる。上流の聖職者たちは、先代の死を待って失った地位を取り戻そうと考えていた。サビニアヌスは、その勢力の影響を受け、また、ローマへ呼び戻された屈辱もあって、先代とは対照的な路線をとり、修道士に与えられていた役職を従来の聖職者に戻した。『教皇の書』は、彼が聖職者の数を大いに増やしたことを賞賛している。

一方で、庶民の評判はよくなかった。在任中の彼は、常にグレゴリウスの控えのような存在とみなされてきた。先代は困窮者への無償の援助を重視していたが、サビニアヌスはこれを止め、教会の財産を浪費したとも非難された。ローマに飢饉があった時には、穀物を有償で配り、あるいは高値で売りつけたと伝えられる。先代が侵略が迫ると穀物を市民に分配していたのに対し、彼は危険が去ってから売ったとされるが、この逸話は後のグレゴリウス支持者の創作かもしれない。経済観念の低さから、年貢を取り立てたともいう。後世には、夢に現れたグレゴリウスが彼を叱り、改まらないので司教杖で打ち、死に至らしめたという伝説まで生まれた。

605年に東ローマのラヴェンナ総督スマラグドゥスとランゴバルド王アギルルフのあいだで結ばれた休戦について、『教皇の書』は彼の仲介があったと述べる。また、聖餐の際や定時の祈りにベルを鳴らす習慣を導入したとオノフリオ・パンヴィニオが伝えているが、この習慣の最初の記録が見られるのは後世の著作である。

606年2月22日の死は、民衆の蜂起によるものだったとも考えられているが、詳しい状況は不明である。遺体はサン・ピエトロに葬られたが、彼に敵意をもつローマ市民を避けるため、葬列はラテラノ宮殿から脇道を通り、市壁の外へ大きく迂回して密かに聖堂へ着いたという。

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