HISTORICAL PERSON · 1949年没

サロージニー・ナーイドゥー

インドの政治家・社会運動家・詩人。ガンジーを支えて独立運動で活躍した。独立後は連合州知事となり、民主国家で初めて州知事に就いた女性とされる。

生涯
1949年没
死亡地
インド(ウッタル・プラデーシュ州 / ラクナウ)
出生地
インド(ハイデラバード)
出典
世界地図
インド(ウッタル・プラデーシュ州)

伝記

サロージニー・ナーイドゥーは、1879年2月13日にインドのハイデラバードで生まれ、1949年3月2日にラクナウで没した政治家、社会運動家、詩人である。旧姓はチャットーパーディヤーイで、ベンガル人の家の出であった。父アゴレナートはバラモンで、ニザーム・カレッジの学長を務め、エディンバラ大学で理学の博士号を得ていた。母バラダ・スンダリ・デーヴィーはベンガル語で詩を書く人だった。八人きょうだいの長女で、弟ヴィレンドラナートは革命家、弟ハリンドラナートは詩人・劇作家・俳優となり、妹のスナリニとムリナリニは無声映画の女優、妹スハシニは共産主義の指導者として知られた。一家はハイデラバードで高い名声を得ていた。

1891年、12歳で大学入学資格の試験を最高の成績で通過した。同じころ、ペルシア語で『マヘル・ムニール』という作品を書き、ハイデラバードのニザームを感心させたという。1895年から1898年まで、ニザームの奨学金を受けてイギリスに留学し、ロンドンのキングス・カレッジ、次いでケンブリッジのガートン・カレッジで学んだ。この間に唯美主義やデカダンスの芸術家たちと交わり、婦人参政権運動にも加わった。1898年にハイデラバードへ戻り、同じ年、留学中に知り合った医師ゴーヴィンダラージュ・ナーイドゥーと結婚した。カーストの異なる者どうしの結婚で、当時は「先駆的でありスキャンダラス」と見られたが、双方の家族が認め、長く円満な結婚生活になった。二人には五人の子があり、娘パドマジャーは後に「インドから出て行け」運動に加わり、独立後のインドでさまざまな公職に就いた。

詩人としては、1905年に最初の詩集『黄金の敷居』を刊行し、その詩はゴーカレーら著名な政治家にも高く評価された。英語で書かれた叙情詩はこの時代の優れたものの一つとされ、色彩やイメージの豊かさ、叙情の質のゆえに、ガンディーから「インドのナイチンゲール」と呼ばれた。作品は子ども向けの詩から、愛国心や悲劇のような重い主題にまで及ぶ。1912年に発表された「ハイデラバードの市場で」は、今も最も親しまれる詩の一つである。没後の1961年には、娘パドマジャーの編集で詩集『夜明けの羽根』が出た。生前に刊行された三冊の詩集は日本語にも訳されている。

政治の面では、1904年ごろから弁論家として知られるようになり、インドの独立と女性の権利、とりわけ女子教育を訴えた。1906年にはカルカッタでインド国民会議とインド社会会議の場に立った。洪水の救援活動での働きにより1911年にカイゼル・イ・ヒンド勲章を受けたが、1919年4月のアムリトサルの虐殺に抗議して、この勲章を返上した。1909年にムトゥラクシュミ・レディと出会い、1914年にはガンディーに会って、政治行動への新たな決意を与えられたと語っている。1917年にはレディとともにインド女性協会の設立に加わり、同年末には、ホームルール連盟の会長でもあったアニー・ベサントに同行してロンドンへ渡り、合同特別委員会で普通選挙権を訴えた。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の共同の要求であるラクナウ協定も支持した。1925年にはインド人女性として初めて国民会議の議長となり、1930年には全インド女性会議の議長を務めた。独立後の1947年、連合州の初代知事に就いたが、在任わずか二年ほどの1949年に急死した。民主主義国家で州知事の座に就いた世界初の女性とされる。

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