伝記
シャー・ジャハーンは、1592年1月5日に生まれ、1666年に74歳で没したムガル帝国の皇帝である。本名はフッラム。父は皇帝ジャハーンギール、母はマールワール王国の君主ウダイ・シングの娘で、ラージプートの出である。6歳のとき、祖父アクバルの命で生母から引き離され、アクバルの妃ルカイヤ・スルターン・ベーグムに養育された。アクバルが素質を見抜いたためとされ、ルカイヤは君主に必要な責務を教え込んだ。
1605年にアクバルが没して父が即位し、1610年以降に父が病の発作を起こしはじめると、政治はフッラム、宰相イティマード・ウッダウラ、妃ヌール・ジャハーン、その弟アーサフ・ハーンの4人が担った。1612年5月、アーサフ・ハーンの娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグムと結婚し、彼女には宮廷の光を意味するムムターズ・マハルの称号が与えられた。二人は仲睦まじく、14人の子が生まれ、息子ではダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、ムラード・バフシュが成人した。フッラムはたびたびデカンへ派遣され、1616年には5万の兵を率いてアフマドナガル王国のマリク・アンバルと領土分割の協定を結び、150万ルピーの賠償金を受け取った。1621年にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に勝って名声を得、1622年1月には幽閉していた兄フスローを殺害した。同年、サファヴィー朝がカンダハールを占領して弟シャフリヤールに奪還の命が下り、フッラムの領地の収入の一部がその弟に与えられることになると、父帝に反旗を翻したが、マハーバト・ハーンの軍に敗れ、1626年に降伏して二人の息子を人質に差し出した。
10月28日に父がラホールへ向かう途中で没すると、その場に居合わせたアーサフ・ハーンがフッラムの支持を表明し、フッラムは1628年1月24日にアーグラに入り、世界の皇帝を意味するシャー・ジャハーンを名乗った。2月にはシャフリヤールら皇族の男子5人をラホールで処刑し、同月14日に即位式を挙げた。その豪華さからヨーロッパの人々は壮麗王と称した。アーサフ・ハーンを宰相に任じ、マハーバト・ハーンにはハーン・ハーナーンの称号を与えて功に報いた。内政ではムガル帝国の最安定期を築き、美術や建築が栄えた。一方、イスラーム復興運動の強まりを背景に、寛容政策は後退した。自らもイスラームの祭日を祝い、メッカとメディナへ使節団を9回派遣している。1632年には新築のヒンドゥー寺院の破壊を命じ、ヴァーラーナシーで76の寺院が壊された。同年、ポルトガル人の海賊が妃のハーレムの女奴隷を連れ去る事件が起き、フーグリーの商業区を破壊させ、約300人が捕虜となった。1629年にはアフガン人貴族ハーン・ジャハーン・ローディーが反乱を起こしたが、1631年にパンジャーブで捕えられた。外では1636年にアフマドナガル王国を併合したが、サファヴィー朝とのムガル・サファヴィー戦争ではカンダハールを得られなかった。
妃ムムターズ・マハルが亡くなると、その墓廟としてタージ・マハルを築いた。その後は側室を増やす生活が20年以上続いたとされ、1657年に重病に陥った。長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男シャー・シュジャー、三男アウラングゼーブ、四男ムラード・バフシュは認めず、四人の息子が帝位を争った。1658年に勝ったアウラングゼーブが即位し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き妃の眠るタージ・マハルを眺めながら1666年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アウグスト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1666年没)
- アダム・シャール (1666年没)
- Francisco Manuel de Melo (1666年没)
- アッバース2世 (1666年没)
- マテオ・セレッソ (1666年没)
同じ地域に関係する人物
- バーバル・サーニー (1949年没)
- ウォルター・バーリー・グリフィン (1937年没)
- A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ (1977年没)
- マーハム・アナガ (1562年没)
- アーサフ・ウッダウラ (1797年没)