伝記
プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクスは、古代ローマの軍人で、第18代ローマ皇帝である。126年8月1日に生まれ、193年3月28日に没した。在位は193年1月1日から3月28日までで、五皇帝の年における最初の帝位請求者にあたる。将軍や属州総督を務めたのち、コンモドゥスの暗殺でネルウァ=アントニヌス朝が絶えると、元老院と近衛隊の推挙を受けて皇帝となったが、同じ年のうちに暗殺された。
北イタリアのアルバ・ポンペイアで、解放奴隷である自由民の家庭に生まれた。父は解放奴隷ヘルウィウス・スクケッススという。ローマで文法学者に学び、成人すると修辞法の教師として職を得たが、途中でより待遇の良い帝国軍に転じた。軍人としての才能を発揮して百人隊長となり、パルティア戦争での働きで昇進して、幾つかの軍団の指揮官を歴任した。その後ダキア総督として政界に進出した。一時は忠誠を疑われたマルクス・アウレリウス帝に疎まれて左遷されたが、マルコマンニ戦争で、総司令官クラウディウス・ポンペイウスの副将として復帰を許された。175年には功績を評価されて執政官に指名され、シリアや上下モエシアの総督を歴任した。
コンモドゥスの治世にも属州の要職を任されたが、近衛隊長ペレンニスと対立し、皇帝は両者の諍いのため彼を公職から遠ざけた。ペレンニスが粛清されると、ブリタニア総督として側近に復帰した。ブリタニアでは前総督マルケルスに対する兵士の大規模な反乱が起きており、待遇改善の要求を拒んで容赦なく鎮圧したため、何度も兵士から命を狙われ、無慈悲な人物という評価を得た。187年には反乱の激化を恐れた皇帝によってアフリカ総督に転任を命じられ、192年には二度目の執政官に叙任されて首都長官に栄転した。近衛隊長クレアンデルが穀物危機による暴動を近衛隊で封じようとすると、首都防衛隊でこれを阻止し、クレアンデルは処刑されて暴動は収まった。やがてコンモドゥスが明確に正気を失って暴政を行うと、宮廷で暗殺の謀議が進み、彼もその関与者の一人だった。192年に皇帝の妾マルキアと近衛隊長ラエトゥスが暗殺を実行し、翌日、首都長官として滞在していた彼は、ラエトゥスとの密約に従って民衆に即位を宣言した。
治世はわずか86日であった。ギボンは、アウレリウス帝時代の禁欲的な政策と緊縮財政を目標としていたようだと考察している。だが急激な改革は議会の反発を招き、即位時の慣例である近衛隊への特別給金を行わず、支持基盤の近衛兵を冷遇して、ラエトゥスとの関係も冷えた。コンモドゥスの遺産を没収して資金を作ろうとしたが、3月にはオスティア港訪問中に暗殺未遂が起き、首謀者の元老院議員たちを処刑したことで、元老院との不和も決定的となった。
数週間後の193年3月28日、近衛隊が宮廷の城門に集結した。皇帝を嫌う衛兵や役人は反乱兵を迎え入れ、送り出したラエトゥスも反対派に転じた。側近は脱出を促したが彼は拒み、演説で兵士を説得しようとした。その最中に、兵士の一人に剣で刺されて死んだ。即位の危険を理解していたとされ、妻フラウィア・ティティアナに皇妃の称号を与えなかったため、妻は次の皇帝ユリアヌスの粛清を免れた。マキャヴェッリは、兵士から憎まれ軍を支配できなかったと否定的に評価している。
同じ年に亡くなった人物
- クラウディウス・ポンペイアヌス (193年)
- ディディウス・ユリアヌス (193年没)
- Marcia (193年没)
- マヌリア・セカンティッラ (193年)
- ナルキッソス (193年没)
同じ地域に関係する人物
- エンニウス (紀元前169年没)
- ピウス8世 (ローマ教皇) (1830年没)
- レンツォ・モンタニャーニ (1997年没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス (紀元前110年代没)
- Aurelio Sabattani (2003年没)