HISTORICAL PERSON · 紀元前110年代没

クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス

共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前143年の執政官。第四次マケドニア戦争で総司令官としてマケドニアを属州とし「マケドニクス」の尊称を得た。ケンソルとして全市民の婚姻義務を唱え、暴徒に襲われた。

生涯
紀元前110年代没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスは、共和政ローマの政治家、軍人である。紀元前210年頃に生まれ、紀元前116年または115年に没した。紀元前143年に、アッピウス・クラウディウス・プルケルとともに執政官を務めた。第四次マケドニア戦争で総司令官として活躍し、マケドニアをローマの属州としたことから、「マケドニクス」の尊称を得た。

紀元前206年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルスの長男として生まれた。紀元前168年に第三次マケドニア戦争が終わったとき、司令官ルキウス・アエミリウス・パウルスの副官として、ペルセウスの敗北と勝利をローマに報告する使者の一人となった。その後マケドニアは四つの自治州に分けられたが、約20年後の紀元前149年、ペルセウスの子ピリッポスを自称するアンドリスコスが独立を宣言し、第四次マケドニア戦争が起こった。開戦直後はマケドニアが優勢で、法務官ユウェンティウスも敗れた。

紀元前148年、法務官のメテッルスが総司令官として派遣され、ピュドナの戦いでマケドニアを破った。アンドリスコスは捕らえられ、マケドニアは正式にローマの属州となった。翌年にはスカルフェイアの戦いでアカイア同盟の指導者クリトラオスを破って殺し、その後任ディアイオスの軍も、カイロネイア近くのアルカディアの軍とともに破った。コリントスの住民が元老院議員に無礼を働く事件が起こり、執政官ルキウス・ムンミウスが派遣されると、メテッルスはムンミウスの到着前に事態を収めようとした。ポリュビオスによれば、ガイウス・ファンニウスらを送って集会の人々を説得させたが、クリトラオスが民衆を扇動したという。最終的には後任のムンミウスに指揮を譲り、イタリアに戻って凱旋式を挙げた。その後、カンプス・マルティウスにカエキリウスのポルチコと、ユピテルとユノーの大神殿を建てた。ローマで初めて大理石を用いた建造物とされ、ギリシアから持ち帰ったアレクサンドロスの武将たちの騎馬像で飾られた。

紀元前143年に執政官となると、イベリア半島に遠征し、ケルティベリア人を破って従えた。翌年は近ヒスパニア属州総督を務めたが、ヌマンティアを落とすことはできず、後任のクィントゥス・ポンペイウスに交代した。また、護民官ティベリウス・グラックスがペルガモン王アッタロス3世の遺産を民会の管理下に置く計画を立てたとき、これを攻撃する演説を行った。彼は閥族派に属し、グラックス兄弟と対立した。紀元前131年には監察官に選ばれた。ローマの風紀の乱れに歯止めをかけると誓い、放蕩を防ぐために全市民へ結婚を義務づけると述べたが、大衆の強い反発を買った。護民官ガイウス・アティニウス・ラベオが彼をタルペーイアの岩から突き落とそうとしたが、別の護民官の介入で危うく難を逃れた。この演説は、後にアウグストゥスが婚姻に関する法を擁護する際、元老院で読み上げたといわれる。

監察官を務めた後、スキピオ・アエミリアヌスと不和になったが、その功績は忘れず、彼が亡くなると嘆き悲しみ、息子たちに遺体を火葬の薪に載せる役を命じた。メテッルスは幸運なローマ人の模範とされた。弁舌や芸術の才に恵まれ、文武の名誉を併せ持ち、4人の息子がみな執政官になったからである。娘の夫プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオとガイウス・セルウィリウス・ウァティアも執政官となった。ウェッレイウス・パテルクルスは、息子たちの成長を見届けて彼らより先に世を去ったことを、死ではなく幸福な旅立ちだと評している。

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