伝記
アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノルは、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスと皇妃ファウスティナ・マイヨルの娘で、のちに皇帝マルクス・アウレリウスの妃となった女性である。生年は125年または130年とされ、没年は175年である。母と同名であることから、小ファウスティナと呼ばれた。母は執政官を務めた大貴族マルクス・アンニウス・ウェルスの娘で、トラヤヌス帝の姉マティルダの孫にあたる。父アントニヌスには4人の子があったが、いずれも早世し、成人したのは小ファウスティナ一人だった。
その結婚は複雑な経緯をたどった。先帝ハドリアヌスは、養子ルキウス・アエリウスを後継者にし、その息子ルキウス・ウェルスの妻にアントニヌスの娘を迎える構想を持っていた。13歳の小ファウスティナはウェルスと婚約したが、アエリウスが急死して政治的な均衡が崩れ、ハドリアヌスはアントニヌスを後継者に指名した。アントニヌスは、ウェルスと甥のアンニウスを養子にすることを条件とされた。帝位に就いたアントニヌスは約束どおり二人を皇太子としたが、娘の婚約は破棄し、従兄にあたるアンニウスと結び直した。145年の春か初夏に結婚したとされ、147年12月には最初の子の誕生ののちにアウグスタの称号を得た。やがてアンニウスはアウレリウスと名を改め、161年にウェルスとともに共同皇帝として即位した。長女ルキッラはウェルスの妻となり、二人の共同皇帝を結びつけた。ウェルスの病没後、アウレリウスが単独の皇帝となると、皇后としての地位は一段と高まった。夫婦の間には30年の結婚生活で13人ともそれ以上ともいわれる子が生まれたが、成人したのは五人の娘と息子コンモドゥスだけだった。コンモドゥスの誕生は、血縁者に恵まれないことの多い歴代皇帝のなかで、アウレリウスにとって大きな意味を持った。
彼女は夫とともに危険な蛮族との戦争に赴き、兵士たちを励ました。「カルヌントゥムの庇護者」や「陣営の母」と呼ばれ、前線の軍団兵から深く敬愛されて、軍事面に不得手な夫の軍での人気を支えたとされる。170年から175年までは北方にあり、175年には夫に従って東方へ向かった。その年、アウレリウスが重病であるとの誤報が流れ、将軍アウィディウス・カッシウスが皇帝を名乗った。彼女は夫が本当に危篤だと恐れ、13歳の息子コンモドゥスの守りとなる人物として、またポンペイアヌスへの対抗として、カッシウスを支持したと伝えられる。カッシウスは3か月ほどで百人隊長に殺された。
その冬、彼女はタウロス山脈にあるハララの陣営で没した。死因は病死、自殺、事故、あるいはカッシウスとの関係への報復としての暗殺とも諸説あり、閲兵に向かう途中の事故の傷がもとで病に伏したとする記述もある。アウレリウスは深く嘆き、妻をハドリアヌス廟に葬り、女神として神殿に祀った。ハララはファウスティナポリスと改名され、身寄りのない少女のための施設が設けられて、少女たちは「ファウスティナの娘たち」と呼ばれた。ミレトスのファウスティナ浴場も彼女の名にちなむ。
後世の記録での評価は厳しい。『ローマ皇帝群像』は多くの愛人を持った奔放な女性として描き、カッシウス・ディオは毒殺や処刑で政敵を除いたと記した。ただし前者は信憑性に乏しいとされ、アウレリウスは妃を中傷から擁護し、夫婦は仲睦まじかったとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・アウィディウス・カッシウス (175年没)
- ウェッティウス・ウァレンス (175年)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・クラウディウス・タキトゥス (276年没)