伝記
ニケタス・コニアテスは、1150年から1155年ごろに生まれ、1213年から1217年に没した、東ローマ帝国とニカイア帝国の政治家であり歴史家である。中世ギリシア語読みでは、ニキタス・ホニアテスとも呼ばれる。古くは、誤ってニケタス・アコミナトスとも呼ばれた。フリュギア地方のコーナイ(現在のトルコ西部)に、小貴族の大家族の子として生まれ、首都には縁故がなかった。9歳のころに、首都コンスタンティノポリスへ送られ、すでにそこにいた、17歳ほど年上の兄ミカエル・コニアテスに育てられて、学問を伝授された。兄は聖職者となり、1182年にアテネの府主教となった神学者である。のちに兄ともども、文人として知られるようになった。
ニケタスは、役人の道を約束されていた。1180年ごろの兄の手紙には、彼の最初の職のひとつが記されており、コンスタンティノス・ペゴニテスのもとの税務の役所で、黒海北岸のトムタラカンに税を集めに派遣されたという。しばらくパフラゴニアで職に就いたのち、首都に戻り、アレクシオス2世の治世に、皇帝の秘書官となった。1183年にアンドロニコス1世が即位すると、宮廷を去り、この皇帝の治世の悲惨な有様を、がく然として見た。イサキオス2世アンゲロスの治世に、再び皇帝の秘書官となり、宮廷の公式の弁論家に昇進し、さらにフィリッポポリスの知事となった。1189年9月に、第3回十字軍に出たフリードリヒ・バルバロッサがフィリッポポリスを通ったとき、ニケタスは、フリードリヒとイサキオス2世との間をとりもった。この時期、彼はラテン人との同盟に好意を持っていた。皇帝イサキオス2世と神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が対立し、怒ったフリードリヒがフィリッポポリスを襲撃すると、ニケタスはこれを防いだ。1190年か1191年に、コンスタンティノポリスの「ヴェールの裁判官」となり、1195年には、中央行政の最高の責任者である「官房長官」となった。
ニケタスは富裕で、首都に二つの邸宅と私的な礼拝堂を持っていた。高級官僚の家柄であるベリサリオタイ家の女性と結婚した。この出世は、1204年2月にアレクシオス・ムルツフロスが権力を握ったことで終わり、ニケタスは理由の説明もないまま職を解かれた。1204年4月に第4回十字軍が首都を襲撃し、攻め落としたとき、彼の命も危うかったが、親しかったヴェネツィアの商人が、彼を町の外に脱出させた。身重の妻と娘、幼い息子たちを腕に抱え、徒歩で逃げ、足もとを見る農民から高い値で食料を買った。セリュンブリアに1206年の春まで留まり、首都に戻って6か月を過ごして、侵略者による破壊を嘆いた。1206年の終わりか1207年の初めに、家族とともに船でニカイアへ向かい、そこで執筆に専念した。ニカイアでは、宮廷でほとんど出世できず、数編の演説を頼まれただけで、一家は初めは貧しく、のちにつつましく暮らした。
主著の『年代記』は全21巻で、1118年のヨハネス2世コムネノスの即位から、1206年までのおよそ1世紀を扱う。コムネノス朝とアンゲロス朝の歴史を記し、東ローマ側から見た十字軍の姿を描いている。1204年に筆を中断し、のちに、十字軍の最初の敗北のあとに再開された。ほかに、十字軍が1204年に破壊したコンスタンティノポリスの彫像を列挙した貴重な断片、18編の演説、全27巻の神学書『正統信仰の宝』、豊富な書簡が残る。中世の東ローマ帝国では、最も優れた歴史家の一人とされる。ウンベルト・エーコの小説『バウドリーノ』に登場する。
同じ年に亡くなった人物
- ギィ・ド・トゥアール (1213年)
- フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公) (1213年(推定))
- マサの聖ヨハネ (1213年)
- ムハンマド・ナースィル (1213年没)
- シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィ (1213年)
同じ地域に関係する人物
- Aristides Quintilianus (250年没)
- アレクシオス3世アンゲロス (1211年没)
- シェザーデ・アフメト (1513年没)
- コンスタンティノス・ラスカリス (1210年代没)
- テオドロス2世ラスカリス (1258年没)