伝記
アレクシオス3世アンゲロスは、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第二代皇帝で、一一九五年から一二〇三年まで在位した人物である。日本語版の記事は生年を一一五六年とするが、フランス語版の記事は一一五三年ごろとし、没年も一二一一年または一二一二年としており、資料の上で食い違いがある。父はアンドロニコス・アンゲロス、母はエウフロシュネで、曽祖父にあたるアレクシオス1世コムネノスの血を引く家柄であった。兄は一一八五年に帝位に就いた初代皇帝イサキオス2世である。
兄と同じくコムネノス王朝の遠縁にあたったため、皇帝アンドロニコス1世から命を狙われたとされる。フランス語版の記事によれば、アンドロニコスは一一八三年にニカイアで起きた蜂起の失敗後、アンゲロス家の者たちを罰したが、アレクシオスは兄弟のうち唯一、目をつぶされなかった。その後、帝国を出てイスラーム側の地へ逃れた。日本語版の記事はアンティオキアで攻撃を受けて捕虜になり、兄がアンドロニコスを倒すと多額の身代金で解放されたと述べるが、フランス語版の記事は、捕虜だったのかサラーフッディーンのもとに身を寄せていただけなのか判然としないとする。いずれにせよコンスタンティノポリスに戻り、兄から宰相や元帥の役目、またセバストクラトルの称号を与えられて、その治世を助けた。
しかしやがて兄と対立し、一一九五年に貴族たちの陰謀の先頭に立って兄を幽閉して廃位し、自ら皇帝となった。帝国は多くの国境で脅かされ、皇帝の権威に対する反発や腐敗の広がりで弱っていた。日本語版の記事は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から巨額の献納金を要求されると、歴代皇帝の墓を暴いて副葬の装飾品を処分してまかなったと記す。さらに兄が優遇したヴェネツィアとの関係を冷やして、その敵であるジェノヴァやピサを優遇し、対外的に多くの敵を作ったともいう。フランス語版の記事によれば、首都では蜂起があり、地方でも反乱が続いたが、軍の支持を得ていたため倒されなかった。しかしそれらのために国境の防衛を固められず、西方では新たに成立した第二次ブルガリア帝国に絶えず攻められ、バルカンではヴラフ人の首長たちが独立していった。ローマ教皇との関係強化も試みたものの、はっきりした同盟には進まなかった。
最大の危機は、兄イサキオスの子アレクシオス4世が第4回十字軍の指導者たちのもとに逃れたことであった。十字軍は聖地から進路を変え、一二〇三年夏にコンスタンティノポリスを攻撃した。包囲された皇帝は都を捨てて逃れ、帝位は十字軍の後ろ盾を得た甥とその父に戻った。国外へ出た皇帝について、日本語版の記事は、ルーム・セルジューク朝のスルタン、カイホスロー1世のもとに身を寄せ、のち娘婿のテオドロス1世ラスカリスがニカイア帝国を建てるとその庇護を受けたが、帝位を要求して対立したと述べる。フランス語版の記事は、一二〇四年の帝都陥落後のラテン人の秩序に抵抗を試み、捕らえられたのち解放されてエピロス専制侯国へ行き、スルタンと結んでニカイア帝国を奪おうとして敗れたとする。一二一一年にカイホスロー1世が戦死すると後ろ盾を失い、修道院に幽閉され、まもなく世を去ったとされる。没した日ははっきりしない。同時代の年代記作者からもしばしば非難され、近代の歴史家からも帝国分裂の責任を厳しく批判されるが、近年の研究には、その意欲を認めるものもある。
同じ年に亡くなった人物
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