伝記
ラール・バハードゥル・シャーストリーは、1904年10月、ウッタル・プラデーシュ州のヴァーラーナシーから7マイルほど離れたムガルサライで生まれたインドの政治家である。父シャラド・プラサードは教師を経て、のちに税務署の事務員になった人物で、母ラームドゥラーリー・デーヴィーは鉄道学校の校長で英語教師だったムンシー・ハザーリー・ラールの娘だった。2人の第2子で長男にあたり、姉が1人いた。1905年4月、彼がまだ1歳半のとき、父は腺ペストの流行で亡くなった。当時23歳だった母は、3人目の子を身ごもったまま、2人の子を連れて自分の父の家があるムガルサライに移り、定住した。以後は母方の祖父の家で育てられたが、その祖父も1908年に脳卒中で亡くなり、大叔父のダルバーリー・ラール、のちにはその息子で教師のビンデーシュワリー・プラサードが一家の面倒を見た。ただ、これは当時のインドの大家族制ではごく普通のことで、彼は優秀な生徒だったため、いとこの一部よりも良い教育を受けたという。
1917年にビンデーシュワリー・プラサードがヴァーラーナシーへ転任し、一家全員がそこへ移った。シャーストリーはハリシュ・チャンドラ高校の7年生に入った。家族に独立運動との縁はなかったが、教師のニシュカメーシュワル・プラサード・ミシュラは熱烈な愛国者で、子どもの家庭教師の仕事を与えて経済的に支えてくれた。この教師に感化されて、独立運動の歴史やヴィヴェーカーナンダ、ガンディー、アニー・ベザントの著作を読むようになった。1921年1月、10年生で卒業試験まで3か月というとき、ガンディーとマダン・モーハン・マーラヴィーヤが催した集会に出席した。学生に政府系の学校を去って非協力運動に加わるよう呼びかける声に応え、翌日には高校を退学し、会議派の地方支部に義勇兵として入った。ピケやデモに積極的に加わり、すぐに逮捕され投獄されたが、まだ未成年だったため釈放された。
学生時代にマハトマ・ガンディーの演説に影響を受けて、独立運動に参加していった。カースト由来の姓シュリーヴァースタヴァも捨てたという。のちにラーラー・ラージパト・ラーイが創設した「人民奉仕協会」の会長を務め、国民会議派の要職にもついた。インドが独立した1947年以降は、ネルー政権のもとで鉄道大臣や内務大臣などの閣僚を歴任した。
1964年5月27日にネルーが首相在任中に死去すると、グルザーリーラール・ナンダーが首相代理となった。6月9日、シャーストリーが正式に後継の第2代首相に選出された。首相としては、アムール乳業協同組合を支援し、国家酪農開発局を設けて、牛乳の生産と供給を増やす「白い革命」を後押しした。食糧生産の増加が必要だとして、1965年に「緑の革命」も推進した。1965年の第二次印パ戦争を指導し、「兵士に栄光あれ、農民に栄光あれ」という標語は、戦争中に広く親しまれた。1966年1月、カシミールの領有をめぐる戦争の和平協議のため、ソビエト連邦のタシュケントを訪れた。協議の末、1月10日に宣言が署名されたが、翌日の1月11日、シャーストリーは心臓発作のため急死した。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・アフマートヴァ (1966年没)
- ヘレン・ケイン (1966年没)
- ゲオルク・ド・ヘヴェシー (1966年没)
- フィリップ・フランク (1966年没)
- ジャック・ロンドン (陸上選手) (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- Oybek (1968年没)
- イスラム・カリモフ (2016年没)
- ヴェラ・コミサルジェフスカヤ (1910年没)
- アブライ・ハン (1781年没)
- アリハーン・トラ (1976年没)