伝記
アンナ・アンドレエヴナ・アフマートヴァは、本名をアンナ・アンドレーイェヴナ・ゴレーンコといい、1889年6月23日(ユリウス暦では6月11日)、オデッサ近郊のボリショイ・フォンタンで、海軍技師の父アンドレイと母インナ・エラーゾヴナのあいだに生まれたロシアの詩人である。五人兄弟で、翌年に父の退官を機に一家はサンクトペテルブルクへ移ったが、1905年に両親が離婚し、厳格な父のもとで過ごした幼少期はあまり幸福ではなかった。ツァールスコエ・セローで、のちにキエフとサンクトペテルブルクで教育を受けた。ラシーヌやプーシキンらに影響されて詩を書き始めたのは十一歳のころである。父は娘の詩をデカダンの潮流に染まったものとして嫌い、自分の姓が印刷されることも好まなかったため、彼女は曾祖母の姓アフマートヴァを筆名とした。タタール人の伝説上の王女の名でもある。
1910年4月25日、三歳年上で同じくアクメイストの詩人ニコライ・グミリョーフと結婚した。二人が知り合ったのは1903年、ツァールスコエ・セローの中学生時代のことで、グミリョーフの熱烈な求婚を彼女は初めは本気にせず退けていたが、絶望した彼が自殺未遂まで起こしたので、折れる形で結婚に至ったという。新婚旅行のパリではモディリアーニと知り合い、十六枚のデッサンのモデルをつとめたが、革命前後の混乱で二枚を残して散逸した。帰国して間もなく、グミリョーフは一人でアフリカへ旅立ち、置き去りにされた彼女は、恋を失う悲哀をうたった詩の制作に没頭した。それが1912年にペテルブルクで出た第一詩集『夕べ』となる。初版はわずか三百部だったが、簡潔で緊密な構成の抒情的な詩篇は詩壇から絶賛された。同じ年の4月には息子レフが生まれており、レフは後年、歴史家として知られるようになる。
アフマートヴァの詩はアクメイストの詩人たちのあいだで好評を博し、「ネヴァの女王」「銀の時代の魂」と呼ばれた。アクメイズムは、神秘主義へ傾いていた象徴主義への反発から、明瞭で地に根差した言語表現を目指す若手詩人たちの集まり「詩人組合」を母体とし、「頂点」を意味するギリシア語から名づけられた。1914年の第二詩集『数珠』は、愛の喪失をうたいながら悲哀を克服する方向へ向かい、『夕べ』をしのぐ成功を収めた。このころには何千人もの女性が詩を書き始めたといい、彼女は「私は多くの女たちに語る方法を教えたけれど、あの人たちを黙らせる方法だけは分からない」と嘆いた。1917年の第三詩集『白き群』では、戦争や革命の動乱を受けて、宗教的な祈りや救済をテーマにした詩が増えた。
1918年にグミリョーフと正式に離婚し、アッシリア学者のウラジーミル・シレイコと再婚した。堅実な学者との家庭で傷心を癒そうと考えたのだが、シレイコは詩を書くこと自体を望まず、妻の原稿をサモワールの焚き付けに使ったほどだったという。彼女は寡作になり、1920年には一篇の詩も書けなくなった。1921年に再び離婚して、フォンタンカ運河に面した館に移り、詩作を再開する。この年、グミリョーフは反革命的な宣伝文書の作成の罪で、秘密警察に銃殺された。アクメイストたちは退廃的・反革命的との非難を受け、マンデリシュタームはシベリアへ流刑となり、アフマートヴァ自身も長い沈黙を余儀なくされた。スターリンによる大粛清の犠牲者に捧げた連作長詩『レクイエム』は、長く封印された。後期には圧政に喘ぐすべての人を代弁した作品を書き、1966年3月5日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴェルナ・フェルトン (1966年没)
- ジュゼッペ・ファリーナ (1966年没)
- サミュエル・カハナモク (1966年没)
- アンナ・ラングフュス (1966年没)
- セレスタン・フレネ (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・ナワシン (1930年没)
- ブルーノ・ポンテコルボ (1993年没)
- Vladimir Voroshilov (2001年没)
- アンドレイ・ベケトフ (1902年没)
- ミハイル・トムスキー (1936年没)