伝記
イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフは、1938年1月30日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国のサマルカンドで生まれた。1941年にサマルカンドの孤児院に送られ、1942年に家に連れ戻されたが、1945年に再び孤児院に送られた。少年時代については、模範的な学生だったという説と、荒くれ者だったという説がある。父はウズベク人、母はタジク人とされるが、父はユダヤ人だという説もあり、詳細は不明である。1955年に高校を卒業し、1960年に中央アジア工科大学を卒業して機械工学の学位を取り、1961年から1966年まで航空機製造企業や水資源省で技術者として働いた。1967年にはタシュケント国民経済大学で経済学の修士号を得た。
1964年にソ連共産党の下部組織であるウズベキスタン共産党に入党した。1966年から1983年にかけて国家計画委員会で専門官から第一副議長まで歴任し、1983年にウズベク共和国の財務大臣に就いた。1986年から副首相兼国家計画委員会議長を務め、カシュカダリヤ州の党第一書記を経て、1989年6月にウズベキスタン共産党中央委員会第一書記となった。1990年3月24日に共和国初代大統領に選ばれ、同年に政治局員にもなった。1991年3月の国民投票ではソ連への連帯を呼びかけ、70%以上が連邦制に賛成した。8月19日のモスクワでのクーデターに際しては、ペレストロイカの行き詰まりとゴルバチョフの指導力のなさを批判し、クーデターへの支持を表明していた。1991年8月31日に共和国の独立を宣言し、国名を「ウズベキスタン共和国」に改め、共産党はウズベキスタン人民民主党に改称した。12月29日の直接選挙で当選し、初代大統領となった。以後、2016年に死去するまで25年にわたって大統領を務めた。
大統領の任期は国民投票で延長され、90%以上の支持を得て再選され、2007年にも3選を果たし、のちに4選された。選挙は、白票や棄権が「カリモフに投票した」と見なされるなど公正さに疑問があり、欧米諸国から批判を受けた。政権の当初から、敵対者の逮捕や拷問、投獄が行われ、野党の活動はほとんど崩壊した。2005年5月13日には、アンディジャンでの反政府デモを軍が鎮圧し、数百人が射殺された。2001年の同時多発テロ以降は、対テロ戦争でアメリカの同盟国とみなされ、800人のアメリカ軍を国内に受け入れたが、2005年7月にアメリカ軍は撤収した。2012年には集団安全保障条約機構から脱退した。独立系のイスラム教への規制を強め、報道も検閲した。2004年から2015年には7%を超える経済成長を記録した一方、綿花の収穫で子どもを含む数百万人が強制労働を強いられていると批判された。
親日家として知られ、1997年に日本の閣僚として初めて面会した麻生太郎に、子どものころ、母に手を引かれて日本人の捕虜収容所に通った思い出を語った。日本人の抑留者が建てたナヴォイ劇場は1966年のタシュケント地震でも壊れず、1996年に功績をたたえる銘板が掲げられたが、彼は「捕虜」と書くことを禁じた。2016年8月27日、脳出血で治療を受けていることを次女のローラが明かし、9月2日に死去した。78歳だった。葬儀はサマルカンドのレギスタン広場で行われ、シャーヒ・ズィンダ廟群にある母と兄弟の墓の隣に埋葬された。
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