伝記
ゲオルク・ド・ヘヴェシーは、1885年8月1日に、当時オーストリア=ハンガリー帝国の一部だったブダペストで、貴族の家柄に生まれたハンガリー出身の化学者である。父ルイスは宮廷顧問官、母ウジェニーはショスベルガー男爵の娘だった。ブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学のほか、ベルリンの大学で物理と化学を学び、1908年にフライブルク大学で博士号を得た。その後、スイスの工科大学で2年間助手を務め、フリッツ・ハーバーのもとに滞在した。ハーバーとロベルト・ル・ロシニョルの、アンモニア合成の研究に引かれてのことだったという。1910年からはマンチェスター大学でアーネスト・ラザフォードとともに働き、1913年にフレデリック・パネットとともに、放射性トレーサーによる最初の実験をウィーンのラジウム研究所で行った。
1915年にオーストリア=ハンガリー軍に召集され、第一次世界大戦が終わるとブダペスト大学で教えた。1919年の春にコペンハーゲンへ移り、ニールス・ボーアの研究所で将来の仕事を準備し、1920年に同地に落ち着いた。1924年にピア・リースと結婚し、一男三女をもうけている。1926年にはフライブルクへ戻って教授となった。1930年にはアメリカのコーネル大学のベーカー講師を務め、1934年にコペンハーゲンへ戻って、1952年までボーアの研究所にとどまった。初期の研究は溶融塩の化学的な振る舞いから始まり、ラザフォードの研究室で放射化学の実際に入った。1922年からは、オランダの物理学者ディルク・コスターの助けを得て、X線を用いた研究を進め、ジルコニウム鉱物の中から1923年にハフニウムを発見した。名はボーアの助言を受け、研究所のあるコペンハーゲンのラテン語名ハフニアにちなんだ。希土類元素にも関心を持った。
トレーサーとしての同位体の利用の草分けの一人で、有機化学でも無機化学でも応用を開発した。フライブルクでは放射性同位体の臨床利用の最初の実験にも参加し、コペンハーゲンに戻った後には、中性子を照射して分析する放射化分析の方法を導入した。1934年からは、標識した原子を使って、動物と植物の生理学の研究を重ねた。第二次世界大戦でドイツがデンマークを占領すると、マックス・フォン・ラウエとジェイムス・フランクから預かっていたノーベル物理学賞の金のメダルを、王水で溶かして、ボーア研究所の棚にしまった。二人はユダヤ系で訴追の恐れがあり、金を国外へ持ち出すことも違法だったためである。彼はスウェーデンへ亡命し、1943年、亡命中にノーベル化学賞を受けた。授賞理由は、化学反応の研究でトレーサーとして同位体を応用したことである。終戦後は、無事に残っていた溶液から金を精製し、ノーベル財団に依頼して、二人のメダルを作り直してもらった。
スウェーデンではストックホルムの有機化学研究所に関わり、X線がもたらす腫瘍や健康な器官での核酸の生成への影響などを調べた。1949年にコプリ・メダルを受け、王立協会の外国人会員になった。1958年には「平和のための原子力賞」を受賞した。その後フライブルクで過ごし、1966年7月5日に同地で亡くなり、遺体はブダペストのケレペシ墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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