伝記
グリア・ガースンは、本名をアイリーン・イーヴリン・グリア・ガースンといい、1904年9月29日、ロンドン東部のマナー・パーク(当時はエセックス州)に生まれたイギリスの女優である。ロンドンの輸入商社に勤める事務員だった父ジョージは1906年に亡くなり、一人っ子の彼女は母ナンシーに育てられた。父はスコットランド系の両親のもとロンドンで生まれ、母はアイルランドのキャバン州の出身だった。グリアという姓は、マクレガーを縮めた名前である。幼少期はおもに北アイルランドのキャッスルウェランで過ごし、母方の祖父は同地で警察の巡査部長を務めたのち、地主の管理人となった。子供の頃はよく病気をして、学校では人気がなかったという。四歳のとき、町の集会所で詩を暗唱してほめられたことがきっかけで、女優になりたいと思った。
ロンドン大学キングズ・カレッジでフランス文学と十八世紀の文学を学び、グルノーブル大学の大学院も修了した。女優を志しながら、広告会社で調査図書室の責任者を務めたこともある。同僚だった俳優ジョージ・サンダースは、自伝で、俳優を目指すよう勧めたのはガースンだったと書いている。舞台での最初の仕事は、1932年1月、二十七歳のときのバーミンガム・レパートリー劇場への出演である。1937年5月には、BBCがアレクサンドラ・パレスから行っていた草創期のテレビ放送で、シェイクスピアの『十二夜』の一場面に出演した。これはテレビでシェイクスピアが上演された最初の例とされる。
ロンドンで新しい才能を探していたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社のルイス・B・メイヤーに見出され、1937年に同社と契約した。ところが、最初の一年半は、メイヤーがふさわしいと認める役を待つ間に背中を痛め、契約を切られかけた。1939年にアメリカ映画に初出演し、デビュー作は『チップス先生さようなら』で、この役でアカデミー賞主演女優賞に初めてノミネートされた。1940年の『高慢と偏見』ではエリザベス・ベネットを演じ、高く評価された。
第二次世界大戦下の1942年に公開された『ミニヴァー夫人』では題名役を演じ、アカデミー主演女優賞を受賞した。この年に最も興行収入を上げた作品である。授賞式では五分ほどのスピーチをしたため、後に「45秒ルール」ができる原因になったとされる。1941年から1945年の作品まで、『キュリー夫人』なども含め、五年連続でノミネートされ、これは記録とされた。1942年から1946年には、興行界の雑誌から、アメリカの人気スターの一人に数えられ続けた。気品のある高貴な女性を演じることで知られた。
1940年代の終わりごろから人気に陰りが見えたが、映画への出演は続けた。1960年には、エレノア・ルーズベルト大統領夫人を演じた『ルーズベルト物語』で復活し、ゴールデングローブ賞の主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、アカデミー賞に最後のノミネートを受けた。同年のハリウッドのウォーク・オブ・フェームに星を得て、11月には来日している。1951年にアメリカ市民権を取得した。1993年にはエリザベス女王から大英帝国勲章のCBEを授けられた。生涯で三度結婚し、実子はいなかった。1996年4月6日、テキサス州ダラスで慢性の心臓疾患により九十一歳で亡くなり、ダラス北方に葬られた。
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