伝記
ジェームズ・アルバート・ミッチェナーは、1907年2月3日にペンシルヴェニア州のドイルズタウンで生まれたとされるアメリカの小説家である。本人は後に、実の両親が誰なのか、自分がいつどこで生まれたのかを正確には知らないと書いている。クエーカー教徒の養母メイベル・ミッチェナーに育てられ、1925年にドイルズタウン高校を卒業した。スワースモア大学ではバスケットボールをしながら英語と歴史を学び、1929年に最優等で学士号を得た。その後はスコットランドに渡り、北海に面した中世の町にあるセント・アンドルーズ大学で2年間学んだ。大恐慌の時期には、貨物列車に無賃で乗る放浪の旅も経験したと語っている。
帰国後はポッツタウンのヒル・スクールで英語教師になり、1933年から1936年までニュータウンのジョージ・スクールで教えた。コロラド州立教員大学(のちの北コロラド大学)で教育学の修士号を取り、卒業後はその大学や付属の高校で教壇に立った。同大学の図書館には、1972年10月に彼の名がつけられている。1939年にはハーバード大学の客員講師として1年間勤め、そののちマクミラン社に移って社会科教育の編集者を務めた。
第二次世界大戦ではクエーカー教徒として良心的兵役拒否の資格を得られたはずだが、自ら志願してアメリカ海軍に入り、南太平洋の戦線に海軍史家として配属された。各地を巡る任務を得られたのは、基地の司令官たちが彼を提督マーク・ミッチャーの息子と誤解したためだという。このときのメモと印象をもとに、40歳で最初の著作『南太平洋物語』(1947年)を発表した。この作品は1948年にピューリッツァー賞のフィクション部門を受賞し、ロジャースとハマースタインによってミュージカル『南太平洋』になって、1949年にブロードウェイで開幕した。のちに1958年と2001年には映画にもなった。
その後は、ある土地を舞台に何世代にもわたる家族の歴史を描く長編で人気を集め、徹底した調査で知られた。1959年の『ハワイ』はハワイが50番目の州になる時期に出版された。『トコリの橋』(1953年)や『サヨナラ』(1954年)、『センテニアル』(1974年)、『チェサピーク物語』、『スペース』、『ポーランド』なども書いた。『センテニアル』はロッキー山脈の家族を描き、全12回のテレビドラマになった。小説の部数は世界で約7500万部と見積もられる。ノンフィクションには、日本からタイ、インドまでを旅して文化を観察した『アジアの声』(1951年)や、ハンガリー動乱を扱った『アンダウの橋』、スペインとポルトガルの旅を描いた『イベリア』や『スポーツの危機』、回想録『世界は私の故郷』があり、1969年には大統領選の選挙人団制度を批判した本も出した。テレビの脚本は成功しなかったが、1959年には名前を貸した連続ドラマ『パラダイスの冒険』が放送された。1977年に大統領自由勲章を受けている。
3回結婚し、3回目の妻は日系のマリー・ヨリコ・サブサワだった。40冊を超える著作を残し、1997年10月16日にテキサス州オースティンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- Santiago Benitez (1997年没)
- フランク・パーカー (1997年没)
- バージェス・メレディス (1997年没)
- Paul Tsongas (1997年没)
- ジョルジュ・マルシェ (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- スカイ・マッコール・バートシアク (2014年没)
- ロス・ペロー (2019年没)
- マートル・コービン (1928年没)
- ジム・シードー (2003年没)
- ヤン・デ・ハルトグ (2002年没)