伝記
マンスール・ウスマーン(正式にはアル・マリク・アル・マンスール・ファフル・アッディーン・ウスマーン)は、1430年ごろにカイロで生まれ、1484年にダミエッタで没した、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第13代スルタンである。在位は1453年の、わずか43日間であった。父は第10代・第12代のスルタン、ザーヒル・ジャクマクで、母はギリシア人の女奴隷であった。父は、ヴァルナの戦いでのオスマン帝国のヨーロッパのキリスト教徒に対する勝利を祝って、オスマン家にちなんでウスマーンと名づけたという。
父のジャクマクは病に倒れて退位を望んだ。アッバース朝のカリフと4人の法官、軍の総督アシュラフ・イーナールや有力なアミールたちの立ち会いのもと、父は自ら退位し、1453年2月1日、19歳のウスマーンがマンスールの称号でスルタンの座に就いた。父は、後見人をつけないほうが息子が廃位や殺害から守られると考えていた。ジャクマクは、80歳で、12日後の2月13日の夜に亡くなった。新スルタンは国の立て直しに取りかかったが、アミールたちに厳しく当たった。ムアイヤド派のアミールの一部を捕らえて、アシュラフ派のアミールを近づけたため、ムアイヤド派のアミールたちに憎まれ、団結して彼に抵抗した。治世の初めには、主席の大臣に鞭で打たれたともいわれる。
3月の初めに、兵士たちが蜂起した。スルタンが、金の含有量を減らしたにせの金貨を恩賞や俸給として配ったためで、これが廃位の主な原因であった。寄付金の額をめぐるアミールたちとの争いもあって、マムルークの各派のあいだで市街戦が起こった。イーナールらの一派は、カイロの城塞を占拠した。アミールたちは兵士とともにウスマーンを城塞に包囲し、イーナールを担ぎ出して、アッバース朝のカリフの宮殿で、ウスマーンの廃位とイーナールの即位を宣言させた。戦いは7日間続いて、ウスマーンの敗北に終わった。彼は東部の遊牧民の助けを求めようとしたが、アミールのカーニー・ベクに拒まれた。城塞は水を断たれ、イーナールの軍が門を押さえた。3月19日、イーナールが城塞に入り、ウスマーンは鎖につながれて船でアレクサンドリアへ送られ、投獄された。
ウスマーンは、スルタン・ハシュカダムの時代まで獄にあった。ハシュカダムは彼を釈放し、アレクサンドリアに住むことを認めた。のちにカーイトバーイがスルタンとなると、彼は父のマムルークだった人物で、ウスマーンをカイロに呼んで丁重に迎え、カイロに住まわせた。1469年にはメッカへ巡礼した。その後はダミエッタに移り、法学を学んだ。1484年にダミエッタで亡くなり、カーイトバーイの命でカイロに運ばれて、父のそばに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ウルバン (技術者) (1453年没)
- ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯) (1453年没)
- ジョン・ダンスタブル (1453年没)
- ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ (1453年没)
- ソフィア (1453年)
同じ地域に関係する人物
- ユーグ10世・ド・リュジニャン (1249年没)
- Adh-Dhahir Timurbugha (1475年没)
- Guillaume de Chartres (1219年没)
- ユーグ9世・ド・リュジニャン (1219年没)