伝記
ユーグ10世・ド・リュジニャンは、フランス西部ポワトゥーの封建領主で、ラ・マルシュ伯とアングレーム伯をつとめた人物である。1182年ごろの生まれとされるが、1183年から1195年の間とする記述もある。リュジニャン家の出身で、エルサレム王ギー・ド・リュジニャンは同族にあたり、キプロス王とも縁続きであった。父はラ・マルシュ伯ユーグ9世で、母である父の最初の妻がだれかは知られていない。ユーグ10世は父のただ一人の跡取りであった。いとこにはウー伯がおり、下ポワトゥーや上ポワトゥーにも領地を持つ親族が多く、リュジニャン家は大きな縁者の網の中にあった。
1199年、リュジニャン家とアングレーム伯家との間で大きな縁組が決まった。父ユーグ9世が、アングレーム伯領の相続人である、8歳か10歳の少女イザベルと結婚することになったのである。ところが、イングランド王リチャード1世が没すると、王位をめぐる混乱が起き、リュジニャン家は弟のジョンを支持した。そのジョンが、伯領の行方を警戒してか、自らイザベルと結婚した。婚約を奪われたユーグ9世はフランス王フィリップ2世に訴えた。フィリップ2世はジョンに法廷への出頭を命じたが、ジョンはこれを拒んだ。ジョンはアキテーヌ公として王の家臣でもあったから、王はジョンの大陸領の没収を宣言し、これがアンジュー帝国の崩壊につながった。ユーグ9世は対抗して、イザベルのいとこであるマティルドと結婚した。
1214年、ジョンはリュジニャン家をなだめるためパルトネーの条約を結んだ。娘ジャンヌをユーグ10世に嫁がせると約束し、2000リーヴルの持参金をつけた。ジャンヌは、ラ・マルシュ伯とその婚約者ユーグ10世の保護下に置かれた。ジョンはラ・マルシュ伯領への権利を捨て、リュジニャン側もアングレーム伯領への主張を放棄した。ジョンは1216年に没し、翌1217年にイザベルは、摂政の座から退けられてアングレームへ戻った。1219年には父が第5回十字軍に参加し、ダミエッタで亡くなった。ユーグ10世はラ・マルシュ伯領とリュジニャンの諸城を継ぎ、リュジニャン家の当主となった。
このとき40歳に近く、まだ独身であった。娘ジャンヌはまだ幼かった。1220年に、ジョンの未亡人となったイザベルと結婚し、アングレーム伯領も手に入れた。イングランド王ヘンリー3世の継父にもなり、西フランスで有力な貴族となった。
1241年には、継子のヘンリー3世とともにルイ9世に反乱を起こしたが、鎮圧された。1246年にイザベルが亡くなると、長男のユーグ11世にアングレームを譲り、1249年6月5日に没した。ラ・マルシュ伯領もユーグ11世が継いだ。イザベルとの間には9人の子が生まれた。次男アイマーはウィンチェスター大司教となり、ウィリアムはペンブルック伯となった。娘マルグリットはトゥールーズ伯レーモン7世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・ザカリーヤー1世 (1249年没)
- アレグザンダー2世 (スコットランド王) (1249年没)
- レーモン7世 (トゥールーズ伯) (1249年没)
- サーリフ (1249年没)
- 宋慈 (1249年没)
同じ地域に関係する人物
- マンスール・ウスマーン (1453年没)
- ユーグ9世・ド・リュジニャン (1219年没)
- Adh-Dhahir Timurbugha (1475年没)
- Guillaume de Chartres (1219年没)