HISTORICAL PERSON · 1453年没

ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)

イングランド軍の主要な指揮官で、フランス人の恐怖と呼ばれた。1429年のパテーの戦いで捕虜となったが、解放後も町を奪回し、1442年にシュルーズベリー伯となった。1453年のカスティヨンで敗死した。

生涯
1453年没
死亡地
フランス共和国(ジロンド県 / カスティヨン・ラ・バタイユ)
出生地
イギリス連邦(シュロップシャー)
出典
世界地図
フランス共和国(ジロンド県)

伝記

ジョン・タルボットは、1387年ごろ(1373年とも1390年ごろともいわれる)に生まれ、1453年7月17日に没した、初代シュルーズベリー伯爵である。イングランドの貴族で軍人であり、百年戦争中のイングランド軍の主要な指揮官の1人であった。「フランス人の恐怖」と呼ばれた。イングランドのシュロップシャーに生まれ、父は第4代リチャード・タルボット、母はアンカレットで、夫妻の次男にあたる。兄にギルバートがいる。

1404年から1413年にかけて、兄ギルバートとともにウェールズの反乱やウェールズ方面の戦争に従軍した。1406年3月12日に、モード・ネヴィルと結婚し、4人の子が生まれた。1413年3月にヘンリー5世が即位した際、一時逮捕されてロンドン塔に投獄されたが、すぐに釈放された。1414年2月から5年間、アイルランド総督を務めたが、オーモンド伯と対立し、アイルランドでの苛烈な統治や、ヘレフォードシャーでの残虐行為によって告訴された。1418年に兄が亡くなり、その娘も1421年に幼くして亡くなったため、ジョンはタルボット男爵位とストレンジ男爵位を継いだ。1420年から1424年にかけてフランスに派遣され、1424年8月のヴェルヌイユの戦いで指揮をとり、その戦功でガーター騎士団の騎士に叙せられた。1425年9月6日にはマーガレット・ビーチャムと再婚し、5人の子が生まれた。

1427年に再びフランスへ渡り、舅のウォリック伯の指揮のもとでモンタルジの戦いに加わったが、敗れた。1428年にはラヴァルやル・マンの奪取に貢献し、ロエアック領主アンドレ・ド・ラヴァルを捕虜とした。オルレアン包囲戦では、司令官ソールズベリー伯が11月に戦死すると、指揮官の1人として活躍したが、1429年5月にジャンヌ・ダルクの率いるフランス軍にオルレアンを解放されて敗走した。援軍と合流してボージャンシーの救援に向かったが間に合わず、6月18日のパテーの戦いで惨敗して捕虜となった。4年間の虜囚ののち、1433年に、フランス軍の指揮官ザントライユとの人質交換で解放された。

解放後も多くの町をフランスから奪回し。1436年1月にはルーアン近くで、ラ・イルとザントライユの軍を敗走させた。1437年にはクロトワで、ソンムの町を通ってブルゴーニュの兵を敗走させ、1439年12月には、奇襲によってリッシュモン元帥の6000の兵を潰走させた。1441年にはポントワーズをフランス軍に奪い返され、ディエップの包囲にも失敗した。1442年5月20日にシュルーズベリー伯爵に叙され、1446年7月17日にはウォーターフォード伯爵位を与えられた。

1450年のフォルミニーの戦いでノルマンディーを失い、1451年にボルドーもフランス軍に奪われた。1452年、ボルドー市民の要請で、タルボットが遠征軍を率いてフランスに渡り、ボルドーを解放した。翌1453年7月17日、カスティヨンの戦いで、歩兵が多く騎士の少ない部隊で攻めかかり、敗死した。フランス軍を率いていたのは、かつて捕虜にしたアンドレ・ド・ラヴァルであった。遺体の損傷は激しく、従者の紋章官が口を開けて歯の隙間を確かめ、主人と確認して泣き崩れたという。10月19日にボルドーが再び落ち、百年戦争は事実上イングランドの敗北で終わった。心臓は、シュロップシャーのウィットチャーチの教会に収められている。

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