伝記
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファは、1864年11月24日に生まれ、1901年9月9日に没した、後期印象派の一人に位置づけられるフランスの画家、版画家である。フランス貴族の息子として南フランスのアルビに生まれ、乗馬や狩猟といった貴族的な生活を過ごした。
家はフランスでも最も古い家柄の一つであるトゥールーズ伯爵家で、両親はいとこ同士であったが、嗜好の違いなどから、冷めた家庭環境で幼年期を過ごした。父は外交的で変わり者、気まぐれな性格で、鷹狩や狩猟を好み、おしゃれを楽しんで、変わった出で立ちで日常生活を送った。母のアデール伯爵夫人は、敬虔で知的で貞淑な、内向的な性格であった。父は叔父とともに素人ながら素描や塑像制作をたしなんでいたため、家にはアンリを芸術に駆り立てる素地があった。幼少期は「小さな宝石」と呼ばれて可愛がられたが、病弱でひ弱で、思うような成長を見せなかった。1872年夏、両親とともにパリへ移り、リセ・フォンターヌに編入したが、虚弱な体質は改善せず、1875年1月に同校を去った。乗馬を愛し、絵画に情熱を注いだ。この頃から、父の友人でもあった動物画家に師事し、素描をはじめとする基礎的な絵画技法を学んだ。
1878年5月、アルビの自宅で椅子から立ち上がろうとして転倒し、左大腿骨を骨折した。翌年の夏には滞在中に転倒して右大腿骨を骨折し、両脚の成長が阻害され、上半身のみが成長して小人のような体型になった。身体的なハンディを背負ったアンリは、ますます芸術活動にのめり込んだ。師が画才をいち早く見抜いて、職業画家になるべきだと家族に進言し、1882年3月からパリに移って、レオン・ボナの画塾に通った。陽気な性格で、金銭に不自由していなかったので、異質な風貌にもかかわらず、画塾仲間の人気者となり、カフェやカフェ・コンセール、飲酒の楽しみも覚えた。ボナの画塾が閉じた後もパリに留まり、モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に移って、ファン・ゴッホ、ベルナールらと出会った。
1880年代に、モンマルトルのキャバレーや、芸術家たちのたまり場に足繁く通い、ダンスホールに通うことが増えた。歌手のブリュアンとは親交を深め、その作品を自身の店に掲げてくれたり、雑誌の素描を依頼されたりして、公私にわたる関係が続いた。絵画モデルであったマリー=クレマンチーヌ・ヴァラドンのデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女を「シュザンヌ」と呼び始めたのも彼であった。自身が身体障害者として差別を受けていたためか、娼婦や踊り子のような夜の世界の女たちに共感し、「ムーラン・ルージュ」をはじめとするダンスホールや酒場に入り浸り、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。1891年からはリトグラフを製作し始め、「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多い。ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも特筆される。作風は日本美術から強い影響を受け、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインを用いた。
しかし、奔放な生活のために梅毒を患い、アブサンなどの強い酒に溺れてアルコール依存症に陥り、心身ともに衰弱した。家族によってサナトリウムに短期間強制入院させられ、1901年8月にパリを引き払って母のもとへ行き、同年9月9日、ジロンド県の母の邸宅で、両親に看取られて、脳出血で死去した。36歳であった。1922年、アルビにトゥールーズ=ロートレック美術館が設立された。
同じ年に亡くなった人物
- ケイト・グリーナウェイ (1901年没)
- アルフレッド・タイソー (1901年没)
- イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリー (1901年没)
- パウル・レー (1901年没)
- アレクサンデル・ギェルィムスキ (1901年没)
同じ地域に関係する人物
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- フェルナン・クーティ (1921年没)
- Jacques Grimonpon (2013年没)
- Andre Labatut (1977年没)
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