HISTORICAL PERSON · 1450年没

ジャック・ケイド

中世イングランドの人物。1450年にヘンリー6世の政権に反乱を起こし、3000人を率いて挙兵、ロンドンへ進軍して政治改革を要求した。反乱軍は恩赦で解散し、ケイドは追手に捕らえられ護送中に死亡した。

生涯
1450年没
死亡地
イギリス連邦(イースト・サセックス / Heathfield and Waldron)
出生地
—
出典
世界地図
イギリス連邦(イースト・サセックス)

伝記

ジャック・ケイドは、1450年7月12日に没した、中世イングランドの人物である。国王ヘンリー6世の政権に反乱を起こし、政治の改革を求めた。素性はほとんど分かっていないが、1420年から1430年のあいだにサセックスで生まれ、社会の下層の出身であったと考えられている。反乱のあいだは「ケントの隊長」を名乗り、「ジョン・アメンドール」など多くの偽名を使った。その一つ「ジョン・モーティマー」を名乗るときには、マーチ伯エドマンド・モーティマーの庶子を自称した。モーティマーの名は、ヘンリー6世にとって好ましくなかった。王位をめぐる最大のライバルであるヨーク公リチャードが、母方のモーティマー家の血を引いていたからである。ただし、ヨーク公が反乱に関わった証拠は見つかっていない。

当時のイングランドは、長年にわたるフランスとの戦争で借金を抱え、ノルマンディーを失って士気が下がり、フランス軍が攻めてくるという不安が広まっていた。王の側近たちは無能で腐敗していると多くの人が考え、その中心にいたのがサフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールであった。1450年5月にサフォーク公が殺害されると、ケントの人々は報復を恐れた。財務大臣のセイ=シール男爵が暗殺に関わった疑いでケント全体が罰せられるという噂が流れ、王がケントを王室の森にするつもりだという噂も広まった。こうして、ジェントリや農民を中心に3000人がケイドに率いられて挙兵し、ロンドンへ向かった。南東のブラックヒースに着くころには、反乱軍は2万人(または4万人)に膨れ上がっていた。6月1日に、ヘンリー6世に宛てた抗議文を発表した。その内容は、国王の打倒ではなく政権の改造を求めるもので、ヨーク公リチャードを登用して、腐敗した側近政治を改めるよう要求していた。ヘンリー6世と政府は拒否して武力を使うことを選び、近郊のセブンオークスに退いたケイドも迎え撃って、6月18日に両軍が衝突した。軍を分けるという失策を犯した国王軍が敗れ、ヘンリー6世はウォリックシャーへ逃れた。

勢いに乗った反乱軍はロンドンへ進み、セイ=シール男爵ら政府の要人を殺害した。ケイドは仲間を抑えようとしたが、入城した反乱軍は略奪に走った。ロンドンの市民や国王軍が反撃に出て、7月にロンドン橋やサザークで血なまぐさい戦いとなり、反乱軍は市外へ追い出された。流血を終わらせるため、7月7日には王から反乱軍に恩赦が出された。ケイドも「モーティマー」の名で恩赦を受けたが、偽名であることが分かって無効とされた。反乱軍が解散すると、ケイドはサセックスへ逃れたが、7月12日にアレグザンダー・アイデンに捕らえられた。このとき追手との戦いで重傷を負い、ロンドンに護送される途中で死亡した。首は切られてロンドン橋にさらされ、胴体は四つ裂きにされて、反乱に協力した疑いのある町へ送られた。

反乱軍が望んだ政治改革は行われなかった。その後、ヘンリー6世がサマセット公エドムンド・ボーフォートを側近に取り立てたことで、危機感を強めたヨーク公が側近政治を攻撃し、サマセット公との対立が激しくなって、薔薇戦争が始まった。ケイドらの行動は、反乱軍に捕らえられていたジョン・ファストルフの家来ジョン・ペインが書き残している。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物