伝記
ウィリアム・ド・ラ・ポールは、1396年10月16日に生まれ、1450年5月2日に没した、初代サフォーク公である。百年戦争期のイングランドの主要な司令官の一人であり、のちに王室侍従長として国王ヘンリー6世に仕えた。第2代サフォーク伯マイケル・ド・ラ・ポールとキャサリン・ド・スタッフォードの次男として、サフォークのコットンで生まれた。
若いころからフランスで戦い、1415年のアルフルール攻囲戦で重傷を負った。この戦いで父は赤痢のために病没した。同じ年のアジャンクールの戦いでは兄の第3代サフォーク伯マイケルも戦死し、ウィリアムが爵位を継いで第4代サフォーク伯となった。1423年にはソールズベリー伯トマス・モンタギューとシャンパーニュで合流し、1424年8月17日のヴェルヌイユの戦いではベッドフォード公ジョンのもとで戦って、その後の4年間はソールズベリー伯の腹心として戦争を指揮した。1428年のオルレアン包囲戦でソールズベリー伯が戦死すると、後任の総司令官となり、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットらとともに包囲網の指揮をとった。1429年5月にジャンヌ・ダルクらの活躍で包囲網が崩れると、ジャルジョーまで後退したが、6月12日にそこで降伏し、フランス人の従者に捕らえられた。降伏の前に、その若い兵士の勇敢さを認めて、自ら騎士に叙したという話は、フランスの歴史や文学で有名である。サフォークは、およそ2年間、フランス王シャルル7世の捕虜となり、14年間の従軍ののち、1431年に身代金を払って解放された。
1430年11月11日に、アリス・チョーサーと結婚していた。帰国後は国王の侍従となり、国政の中心にいたヘンリー・ボーフォート枢機卿と手を結んだ。最大の功績は、1444年にヘンリー6世の妃としてマーガレット・オブ・アンジューを迎える交渉をまとめたことで、この功績により、サフォーク侯に昇進した。ただし、この取り決めには、メーヌとアンジューをフランスへ返すという秘密の条項が含まれていた。1447年にグロスター公ハンフリーとボーフォート枢機卿が亡くなると、サフォーク侯は、弱くて従順なヘンリー6世の陰の実力者になった。自ら王室侍従長や海軍司令長官などの要職につき、1447年にペンブルック伯に、翌1448年にはサフォーク公に列せられた。1445年にはサマセット公エドムンド・ボーフォートをノルマンディー総督に起用し、反対派のヨーク公リチャードを1447年にアイルランド総督として遠ざけた。一人息子ジョンを、サマセット公の姪マーガレット・ボーフォートと婚約させて、ボーフォート家との結びつきも強めた。
しかし、この専制体制は多くの反感を買った。メーヌとアンジューを譲る条件が1447年に暴露されて非難され、ノルマンディーの入植者からも不満が出た。1448年3月にル・マンを奪われ、1449年3月にフージェールがイングランド軍の独走で落とされると、フランスが報復してノルマンディーに攻め込み、11月4日にはルーアンも陥落した。サフォーク公は権威を失い、1450年1月28日に逮捕されてロンドン塔に入れられた。3月に5年間の追放を言い渡され、4月30日にイングランドを去ったが、船旅の途中で待ち伏せにあい、5月2日に殺害された。怒った群衆に形ばかりの裁判を受けさせられ、首を切られたともいわれ、殺害したのが国内の反対派なのかフランス側なのかは謎である。息子ジョンはのちに第2代サフォーク公となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック・ケイド (1450年没)
- サセッタ (1450年代没)
- ベント・イェンセン・オクセンシェルナ (1450年)
- 世宗 (朝鮮王) (1450年没)
- John Lydgate (1450年)
同じ地域に関係する人物
- ローレンス・ブラッグ (1971年没)
- ヒューバート・マイルズ・グラッドウィン・ジェブ (初代グラッドウィン男爵) (1996年没)
- ドロシー・オーダム (2014年没)
- エメリック・プレスバーガー (1988年没)
- ピーター・ピアーズ (1986年没)